船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第8回

新兵教育・特別教育




入隊式が、終わると、いよいよ、正式に新兵教育に入ることになる。
平時なら、期間は、3ケ月間がそれに当てられるのであるが、s18年の12期の教育
から、短縮され、1ケ月になった。

その、短期間に、一応新兵としての、基礎を教育されるのであるから、それは、大変
なことである。

新兵教育の、カリキュラムは、普通学・軍制・運用術・精神訓話・通信(發・受)・陸
戦・体育等などの、日課が、午前8時の課業整列(全分隊が、運動場に整列して、各分
隊当直練習生が、整列の終わった順番に、号令台上の副直将校にたいし、人員と、準
備良しを報告すし、軍艦旗掲揚に移る。

副直将校の達しの後、各分隊予定日課課業に向う。

午前の日課時間は、90分を一区切りとし、休みを10分とり、2時間目をおえて、昼
食時間になる。

午後は、1時より4時まで、2時間があり、4時から1時間は、別課といった時間割に
なっていた。

普通学は、数学・国語が主力で海軍文官教授の授業であり、これが、私にとっては、
中学時代の授業よりも、大変判りやすかった。

軍制とは、海軍の組織とか、仕組みについて教わる訳であるが、現代のマニアル時代
では当然のことながら、正装や服装について、細かく規定してあったので、吃驚した
ものである。

精神訓話は、軍人勅諭を中心にして、軍人精神を吹き込む為の教育が主眼であるが、
海軍では、軍人勅諭を全部暗記させるような方法ではなく、五ケ条の条文を覚え、趣
旨が理解できればと言った程度の教育方法であった。そのほか、稚心からの脱却につ
いて、橋本左内の???録の解説講話・精神訓話が有って、兎に角、軍人精神の会得
を求められた。

運用術は、他の分隊の運用術の教員による、防毒訓練等の教育があった。時間があれ
ば、結索や、端艇等の教育があるのであろうが、そこまでは行かなかった。

通信は、一番精力を傾けて、教育されていた。通信講堂での、電鍵を使っての発信・
受信、居住区で、拡声器から流れるモールス信号の受信に相当な時間が配分されてい
て、後述するが、通信の上達の為練習生は、苦労をするのである。

陸戦とは、陸軍で言う教練のことで、軍人養成教育の根幹を成すもので、整列、行
進、敬礼の姿勢、兎に角、軍人としての所作をね徹底的にしごかれるのであり、之に
も、相当の時間配分がなされていた。

体操は、予科練鍛錬の華と言われているように、殆ど毎日、別課の時間は、海軍体操
か、手旗信号の訓練に終始していた。

体操は、総員起こし後の整列のとき、海軍体操を上半身裸になって実施するが、別課
の時間の体操は、体育服に着替えての、航空体操で、柔軟体操的な所作が多く取り入
れられた内容であった。

以上の課業が、施設の関係で、各分隊毎に、時間割予定が組まれて、分隊単位で課業
が進むことに成っていた。

机に座ってする課業を座学と言っていたが、通信講堂以外の座学は、各分隊の、居住
区(食堂兼温習室)で、実施された。

陸戦では、銃は九九式陸戦小銃が、使用されたが、陸軍と異なり、各分隊には、20
丁程度が銃架に有るのみで、しかも、夫々の銃の保管担当者は決められていない。分
隊全員の銃を揃えるには、他の分隊の銃を借りて、訓練をする事になっていた。

これらの課業が月月火水木金金といわれるように、連日続くのであるが、日曜日は、
軽業の日課になっていた。勿論新兵教育中は、上陸無し面会厳禁である。

以上が、課業のあらましであるが、総員起こしから巡検終りまでの、日課の過程の中
には、色々な雑務や、アクシデントもあるので、練習生は、息つくまもない超過密な
日課が続くのである。


つづく


最終更新(1998/12/12)