船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第33回

故郷に帰って   其の1




 8月27日に帰着したのであるが、家業の旅館は、一部の部屋の畳は、積み上げら
れて、防災態勢の名残をとどめており、其の夜は、宿泊のお客と、同道復員してき
た、両少尉達は、旅館の部屋に泊まり、私は、家族が、少し街外れの、小さな疎開
の為に拵えた、バラックに、K市から疎開してきていた親戚と、棟割の一室に生活
していたので、夜は、そこに泊まった、母は、私が、疥癬に罹っていることや、少
しやせていたので、気を遣い、それから、私の健康回復に懸命の配慮をしてくれ
た。

 さて、一夜明けて、近所を歩いてみた、ところが、近所の人と会うことになり、
恥ずかしい思いもしたが、挙手の敬礼で、帰還挨拶をすると、皆が元気で帰ってこ
られて良かったですねと、喜んでくれた。

 当時の世相は、国民総虚脱状態で、終戦後の混沌ととした世相の始まりの頃であ
り、田舎である我が故郷でも、主食の米の調達には、苦労があったらしい、しか
し、母は、私達を心からもてなして呉れていた。

 我家の建物にも、敵機による、機銃掃射による、弾貫通の後が、壁から引戸に
と、3け所程有り、陶磁器製の火鉢が割れたとの事で、其の程度の被害ですんで幸
いであった。
 妹の、話によると、近くの小山に拵えてあるチャチな防空壕に逃げ込むのに、危
機一髪といった場面も経験したそうで、銃後の人のほうが、私達より命からがらの
経験をしたのだなと思った。

 当時の、復員兵は、持ちきれないほどの、衣料、毛布などを担いで、帰ってくる
のが多かったが、私などは、員数も不足した標準支給の衣料の入ったリュックサッ
ク一つに、あろう事か、爆薬などを持ちかえったので、良く、後々話題にされた。

 一両日後に、同郡内に復員した、同期の家を、両少尉と尋ねて回った。
 月末になって、S市の親戚の、海兵の1号生徒であった従兄弟が我家を尋ねてき
た、お互い無事を祝って、私の両親も、喜んでくれた。

 月があけて、私は、中学時代の友で、私が薦めて、予科練を受け、7月に、天理
空に16期生として入隊した、KK君の家を訪問した。私は、自分が薦めなけれ
ば、入隊することも無かったのにと、済まない気持ちが有ったが、彼と、会ったら
至極元気でむしろ、予科練に入ったことを喜んでいた様で、私の杞憂も晴れホット
した。

 其の夜は、従兄弟と2人で、KK君の家で歓待を受け、泊まった。

 従兄弟が、帰ることになり、私も、S市の従兄弟の家え一緒に行くことに成っ
た。 (多分、従兄弟は、私の父から、例の荷物を持ちかえったことで危惧している
のでと言い含められていたのではないかと後で考えた。)

 両少尉は、其のまま、我家に逗留し貰って、私は、従兄弟の家に往って、約2週
間程度、戦災で焼け出されて、郊外の田園地帯に疎開していた従兄弟の家族と農作
業などを手伝いながら日を過ごした。

 9月25日前後、自宅に帰ってみたら、岩山少尉は、実家の疎開先が判ったとの
事で、また、本田少尉は、交通事情も何とかなりそうだと言うことで、約2週間ぐ
らいの逗留で、例の荷物を何処かに運び出されて、それぞれ出発されていた。

  この間、母は、両少尉に対して親切にもてなしをしてくれていた。

  この頃、父母から、中学校に復学する様に、しきりに、薦められるようになっ
た。しかし、私は、復学するような気分に成れなかった。これと言った目標も無
かったのであるが、どうしても、復学するには、ためらいがあった。


つづく


最終更新(1998/12/24)