船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第34回

故郷に帰って   其の2




 9月の末ころ、父に、高等商船学校に進学を許してくれたら、中学に復学する
と、押し問答していた。父は、時代が変わったから、その様なコースに進のは、許
さない、それでは進学しないよと、言った調子で、復学をためらっていた。

 地元の旧友も、遊びにきていたが、彼らも、学校が戦災に会い、また、勤労動員
で戦闘道路工事に駆り出され、食事も劣悪で、大変苦労していたことを話してくれ
た。

 私達は、予科練生活中、米のご飯には、有り付けていたし、訓練は、当然厳し
かったがそれは、覚悟の上のことであったので左程悔いは無かったし、空襲も直接
受けることも無く、志願をしなかった級友よりもマシであったのかなと思ったりも
した。

 或る日、母が、中学校の恩師から伝言があって、学校に出て来いということで、
多分、9月の末日頃か、10月の初めの日に、焼け出されて、隣町の旧海軍の施設
で分散授業をしていた、母校に尋ねていったところ、恩師S先生が、おぉ元気で
帰ってきたかといって、即学級に組み入れられ、其の惰性で、復学を果たし、紆余
曲折しながら、旧制官立水産専門学校漁業学科に、進学を果たし、船に一歩近づい
た。

 この時の母が言った、恩師の伝言と言うのは、小生を復学させる為に母が咄嗟の
知恵を出したのではないか思っている。

 それからの、2年数ヶ月の間は、戦後の混乱期で、経済も闇経済、物資も欠乏時
代で、学業もそこそであったが、民主主義の波が世間を覆い、軍国思想の徹底的排
除と言った風潮の中、予科練時代の気分が中々抜けないで、巷間土科練・与太練
と、言われるのが悔しくて、俺達は違うんだと息巻いていた。

 しかし、攻撃精神と海軍精神は、忘れず所謂行き脚がついた果敢な気構えで中学
生活を送りながら、平和時代の青春を謳歌しながら、少しずつ、心中の整理もつき
始め、普通の中学生らしくなって行った。

 岩山小隊長とは、この後も交友があり、戦後1年目の終戦記念日には、県内の同
期生の一部が、K市のKT学舎(郷中教育の拠点)に集まり、日本国の存亡危機に際
しては、必ず再起することを話し合ったりした。

 その後も、岩山小隊長の影響で、国粋的思想について、興味と憧憬を抱くように
なった。
 10月の或る日、焼失していた母校に往った時、他の分散教場の担当であった、
私が志願したときの担任教師と出会い、元気で復員したことを報告したら、其の先
生は、大変済まなかったと言ったような顔された様で、多分教え子を戦争に駆り出
したことを気にしておられるのかな感じた。私自身は、自分の希望で志願したの
で、担任に対しては、何もわだかまりも無く挨拶をしたのであった。機会があった
ら、ハッキリと、気持ちを申し上げたいと思っていたが、その後会う機会も無く、
私の心に残ったままである。

 ここまで、時系列的に、私の予科練記を綴ってきました。拙文で脈絡の無い、話
の連続で、読んでいただいた皆様には、あまり、参考にもならなかったのではと
思っております。この、投稿を始めて、あらためて、当時を思い起こし、16期生
の一つの記録の一端にでも成ればと言った義務感も出てきて、今回まで回を重ねま
した。



最終更新(1998/12/25)