船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第32回

解隊から故郷へ   其の2



 
 翌日26日に、どうにかして、鳥栖行きの列車に乗ることが出来て、K本線の下り
列車に潜り込み、多分大牟田付近の破損した、鉄橋を、徒歩で渡り、列車を乗り継
いで、荒尾あたりの鉄橋寸断を徒歩で渡って、列車を待つことに成ったのが、夜の
8時ごろになっていただろうか、そこに、辿りつくまでの記憶に残っていること
は、渡河の際、陸軍の補助憲兵が、復員兵の持ち物を検査していたことのみであ
る。

 我々が所持していた、菰包みの爆薬の箱は、これは、何だとシッコク誰何を受け
たのである。其の都度、何を抜かすか、缶詰だよと言うと、重さを試して、それ
は、可笑しいと言って疑いが晴れない。そこで、缶詰にしておけと此方が凄むこと
になり、我々の凄みで足りないときは、岩山少尉の貫禄で凄み検閲を潜りぬけた。

 ここで、失態を引き起こした。それは、手分けして、民家に夜食に出て居たと
き、急に列車が来たので、慌てて、皆を集めて乗りこむことに成った。その、ドサ
クサ紛れの最中に、岩山少尉の持ち物、海軍士官用衣嚢こおりを盗難に遭ったので
ある、それで、岩山少尉は、着たきり雀になった。

 この、盗難事件は、荒尾でなくて、最初の鉄橋渡河のときであったかも、記憶が
混乱していて、はっきりしない。

 佐々を出て、二日をかけて、K本線Y駅に辿りついた、昼前後であった。ここ
で、K本線方面に帰るものと、H支線方面のK郡方面の者と、別れた。

 我々、K郡方面には、岩山・本田両少尉と、全部がK中出身の同期生6名であっ
た。ここでは、たいした待ち時間も無く、H支線の列車に乗れた。

 この線は、天下の急流K川にそって、山間を登って、南九州3県の分水嶺である
Y嶽をループ線とスイッチバックを繰り返して上り詰め、劣悪な石炭を炊いてあえ
ぎながらの行程である。

 故郷に、まもなくと言う地理的位置に近づくと、私は、なんとなくそわそわしな
がら、いろいろな、不安が心をよぎっていた。皆もそうであったのであろう、列車
は、ギュウギュウ詰になるほどの混雑はしていなかった様であるが、あまり話を交
わしたような記憶がない。

 いよいよ、スイッチバックをしながら、K県のY駅に着いた。ところが、列車が
停車中、そこの駅員に、故郷の顔見知りの助役さんを見つけたので、早速挨拶をし
て、鉄道電話で私の実家に連絡を頼んだ、それは、実家が、駅前旅館で昔から、鉄
道の方々とは懇意にしていたのでそれに甘えてのことで、伝言の内容は、「小隊長2
名の方と帰るので、荷物もあるからリヤカーを持って駅頭に迎えてくれ」と言った
ことである。

 ところが、この伝言が、父を驚愕落胆の極に陥れた様で、ようやく、出征して出
立した、M駅のホームに降り立った私が見た、父は顔面蒼白心配顔で待っているで
はないか、これは、後でわかったことであるが、鉄道電話で、小隊長を同道して、
しかも、荷車を用意せよと言うことは、テッキリ遺骨か、事故で怪我でもしたのか
と思いこんだらしい。

 今では、笑い話の様に言えるのであるが、入隊中文通も侭ならず、父母は、私の
動静が全くわからず、毎日が心配の連続で、しかも、同町から志願していた、陸海
軍の、同年代の復員は、20日以前終わっていたことや、我々が通過してきた、H
支線のY駅を昇ったところの、トンネル内で、列車が蒸気力不足で立ち往生して、
鈴なりに乗っていた復員軍人が犠牲になったと言う事故が数日前に起きていたこと
もあったようで。

 この事故では、K県のKY海軍航空隊基地に基地要員として派遣されていた、松
山空の16期予科練生が犠牲になっているのである、現在も、当時救出に当たった
地元の方々が、毎年事故現場の線路脇に立てられた、銘碑の前で、8月22日に慰
霊祭を続けられている。甲飛の同期生として合掌である。

 故郷の駅頭に立った、私は驚いた。それは、佐々で、中村中尉に聞いた情報で
は、空襲の被災は無かったときいていたのであるが、駅前を見ると、正面から我が
家の方向へ、家々と倉庫群が、被災し焼けてなくなっているではないか、吃驚し
て、見通すと、我が家の2~3軒目のところで、延焼が止まっていたので漸く安堵し
た。

 父は、無言の侭我々を自宅まで連れて帰った。家に帰りつくと、母が涙して待っ
ていてくれた。そして、妹を始め、家業の従業員の女中さん達や、近所の人、疎開
してきていた親戚の者一同が良く帰ったと迎い入れてくれた。

 早速仏前に復員の報告をし様と、仏壇に向かったら、そこには、私の出征の写真
が飾られ、陰膳が備えてあった。

 妹の話によると、母は、毎日、陰膳を欠かさず、武運を祈って居たそうで、それ
に、我が故郷には、旧暦の18日は、陸軍関係の出征兵士の留守宅では、近隣知人が
集い武運長久を祈る祭事を催す風習があった。海軍関係は、毎月の23夜であった
ので、当日は、母は、ご馳走を作り、参加してくださる方々に振舞っていたとの事
で、水商売と言ったこともあって、参集してくれるお客も多く、物資欠乏のなか、
色々工面に、苦労していたことを聴かされ、改めて、母に心配をかけたことを心に
刻んだ。

 其の夜、父母に、両小隊長を同道したことを説明した。岩山少尉は、K市の実家
が焼け出され、家族の行く先が判明していないこと、本田少尉は、東北で交通が困
難なことで同道したことを告げた。

 母は、何も言わず、両小隊長をもてなしてくれた。
 それから、荷物の内容の事も、父には、報告したが、非常に心配した様で、誰に
も他言するなと釘を刺された。


つづく


最終更新(1998/12/23)