船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第31回

解隊から故郷へ   其の1




 我々の隊に、特命で解隊命令が出たので、解隊してそれぞれ故郷に散っていくこ
とに成ったが、我々に、訓示されたことは、故郷に帰って機会が有ったら、篭城戦
を続けようとのことであった。
 8月23日であったろう、それから、隊内では、復員準備に入る事になったが、其の
日のことは、殆ど思い起こせない。
 其のとき、各人に渡された、携帯暦(各人の所属、進級、移動の記録が記されてい
る公用履歴書)には、9月5日付けで、各人一階級進級辞令と、予備役編入の記録がし
てあった。
 とにかく、帰るにしても、どの様にして帰るのか見当もつかなかった。
 翌日になると、K県方面は、岩山少尉(終戦により、ボツタム少尉に昇進)を中心にし
て、十数名がチームを組んで出発することになった。それに、東北出身の本田少尉も、
K県組に同道することになって、一応、私の実家に落着く事になった。このこと
は、何時その様な取り決めをしたのか、詳しい経緯は覚えていないが、多分、実家
が、旅館業をしていたので、同道を同意したのであろう。
 帰る方法として、いろいろ詮索された様であるが、K県方面は、国鉄を利用する
方法で決まり、25日の昼過ぎ、隊に残っている隊員に別れを告げ、先ず、佐世保
駅まで行くことに成った。
 佐世保駅についた時刻は、既に、夕暮れの時間になっており、何時列車が動く
か、乗れるかといったことも全然判らなかったので、駅前の復員軍人や、民間人で
列車待ちの人人の混雑した群れの中で、目的の列車が出るまで、待つことになっ
た。
 我々K県組みは、岩山少尉の発議で、爆薬を3箱(多分破甲爆弾とチビ弾であった
ろう)と、拳銃3丁を、所持していた。
 夕闇みが迫ってきて、米を持って、駅前の食堂に行って夕食を取ることに成り、
交替で、各人の荷物を見張り番をしたが、私は、其の見張りのとき、肩にぶら下げ
ていた雑嚢に、拳銃2丁をいれて皆の交替を待つことになった。其のときの駅頭に
は、しょんぼりした風情の者や、復員兵や、ヤケッパチで酒を飲んで管を巻く者、
騒然としていた。
 佐世保は、空襲の被害があって、混沌としていた。私が、小用のため、焼け跡の
建物の影に行って、用を済ませて出てきたら、海軍の3種軍装の飛行下士官(多分一
等飛行兵曹だったろう)に呼び止められたのである。
 「おい、お前は、予科練練習生か」と訊かれ、「お前の雑嚢には、何を持ってい
るのか」と言いながら私を、建物の影に連れていかれた。私は、口篭もってはっき
りした返答に困っていると、下士官は、すっと手を伸ばして、拳銃を取り出してし
まった。
 「俺は、米軍の命令で、彗星艦爆を、サイパンに空輸することになっているか
ら、これを俺に譲れ」といって、迫られた。相手の掌には、拳銃が渡っていての交
渉であり、必死の思いで、これは、小隊長の命で預かっているので、私の一存で
は、どうにも出来ませんと言ったようなことをいって、断りを繰り返し、押し問答
をした末、相手も、了解したのか、拳銃を返してもらった。そして、其の下士官は
立ち去っていった。一時どうなることかと、内心ビクビクして、恐ろしかったの
で、一瞬ホットしたことを思い出す。
 岩山少尉に其のことを、報告したところ、それは、俺が会って話をすれば良かっ
たなあ、もし、空輸が本当なら譲ってやっても良かったのにと言われた。
 今、考えると、その、下士官が、何故私の雑嚢に、ねらいをつけたのか、前後の
事を詳しく思い出せないが、多分、私が、雑嚢の中身を意識した振る舞いがあっ
て、一見して、判読されたのだろうか、真実は、どうであったか、忘れてしまって
いるが、その様な事件を経験したことは、確かである。
 いろいろな情報で、国鉄K本線は、KM県内で、2ケ所鉄橋が被災していて、区間
折り返し運転をしているらしいとの事がわかってきた。
 佐世保の駅頭で、野宿をして一夜を明かすことに成った。


つづく


最終更新(1998/12/25)