船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第30回

終戦から解隊まで   其の2




 18日の、武器引取りの際、疥癬の疾病に加え銃に塗られている漆にかぶれてし
まった。
それから、一両日後のことであったろう。衛兵当直に立ち、青年学校の裏手の小山
に在る武器庫へ通ずる入り口の歩哨に就いた。連日の夜襲や、目まぐるしく駆け
回ってきた疲れが出て、歩哨に立ちながら眠気を催し、それを、15期の移動衛兵当
直に、発見されたのである。
 
 それを、小隊の14期に報告がなされ、其の夜は、アゴ 36発、バッター16本の罰
直を受けることに成った。それでも、頑張って、フラフラしながらも耐え忍んだ、
其のことで、疥癬と漆負けの顔面が腫上がり、故郷に帰るまで、腫れが引くのか
と、心配をした。
 
 中隊は、軍需部から強引に受け取ってきた、武器で、裏山に在る沼地に行って、
実弾射撃訓練を始めた。しかし、私は、医務室通いの輕業患者扱いで、兵舎で休ん
でいた、訓練から帰ってきた、14期が、私をみつけて、昨日の続きで、殴り始め
た、そして、テーブルにあった、アルミ製の海軍の頑丈な薬缶を振り上げて、私の
頭に振り下ろして殴りつけられた。
 
 同期生が帰隊して、薬缶が、凹んでいるので怪訝な顔していたので、大変ばつの
悪い思いをした。
 
 私を、殴った、14期は、腹の虫が悪く、歩哨の不手際は、軍法違反になるもので
あることを種に憂さ晴らしをしたのではないかと、今では、思っている。
 
 私は、医務室通いも在って、実弾射撃訓練には、参加できなかった。
 実射訓練の際、拳銃の銃身が暴発で折れて、15期生が一人片眼失明の重症事故も
発生した。
 
 其の様な、生活の中、22日ごろであったと思うが、予科練中隊に対して、鎮守
府から、25日までに、強制解隊命令が出されたとのことで、篭城戦の計画は頓挫
し、故郷に向かって、復員することになった。
 
 復員準備が始まったのであるが、内心は、ホットといった気持ちも多少はあった
が、故郷に帰って、壮行会で見送ってくれた皆に会うことが、恥ずかしく思えた
り、オメオメ敗残兵として帰るのが残念に思えたり複雑な心境であったと覚えてい
る。
 
 各人には、多少の米、砂糖、缶詰が配分された。それに、復員証明書とそ
れまでの給料と、退職金として、970円ぐらいの現金が渡された。

 当時の、千円は大金であった。現金を貰ってびっくりもした。
 ちなみに、二等兵の給料は、5円50銭、一等兵は、12円位、上等兵が15円くらい
で、それに、8割位の戦時加俸が支給されていたのであるが、我々は、手にしたこ
とは無かった、歯磨きや、私物の購入費用は、班長が俸給から差し引いて、貯金と
して保管されていて、我々は、現金を必要とするような外出も無かったし、現金を
手にしたことは無かったので、退職金にそれまでの俸給が合わせて、支給されたの
であるが、年端の行かない自分は、軍隊に奉公に行ったつもりで、金のことなど頓
着なく、俸給が出ることさえ怪訝に思ったりもした。
  

つづく


最終更新(1998/12/23)