船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第29回

終戦から解隊まで   其の1




 8月15日は、虚脱感と、悔しさ、先行きについての不安、色々な思いが錯綜して、
日が暮れて、16日を迎えたのであるが、中隊全員が、篭城戦に参加することに成っ
たが、具体的な、戦術なり作戦があったわけではなく、兎に角、最後まで戦うと息
巻いていた。

 中隊幹部と、14期生の代表によって、話し合いが会ったことであろう、我々に
は、武器も無く、食料もない、丸裸である。
 
 16日の夜のことであった。どの小隊が先頭になったか覚えていないが、食料の収
奪蓄積をしなければと言ったことで、各小隊から、1分隊が出て、佐々の町屋の納
家や倉庫に居たく保管してあった海軍軍需部の食料の収奪にかかることに成り、そ
れから、毎夜、交代で、収奪が始まった。

 収奪した量は、米数俵、砂糖2袋、燃料アルコール 2ドラム、缶詰数箱などて
あり、それらを、各隊が競って挺身奇襲の要領で収奪してきた。

 翌日は、盗難にあった、町屋では、警察官が来て被害調査をしていた。我々は、
横目でそれを眺めながら、知らぬ半兵衛を決め込んでいた。
 それらの、物資は、我々が使役に出て、整理したことのある町屋で、勝手知っ
た、収奪作戦であった。今思うと、使役に出たとき、60Kgの米俵を、15歳の
体格で担がされたもので、今では、担げる自信もない、環境というものは、人間の
極限の力を引き出す者だなぁと思っている。

 私も、数夜、収奪に出掛けた。物資を担いで兵舎に辿りつくのは、明け方になる
ことが多かった。在る朝のこと、隊門近くに辿りついたら、隊門衛兵が突然敵襲と
言って、非常警戒報をだして、我々に対して、攻撃を仕掛けそうになり、あわや、
味方撃ちの寸前になり、誤りがわかって、大事に至らなかった。

 これも、当時の情勢では、起こるべくして起きたのである。其の訳は、この地方
は、ご承知のとおり産炭地区であり、半島から徴用工が多く動員されていて、彼ら
が反乱を起こし不穏な空気があるとの、予備情報が、隊にもたらされていたからで
ある。

 夜になると、ドラム缶の燃料アルコールと砂糖を食器に盛り、飲んで大トラにな
り、日本刀の抜き身を振り回す者も居て、隊内は、荒んでいた。我々は、再下級な
ので、オロオロしているだけであった。

 多分8月18日であっただろう、我々2小隊と3小隊の二コ小隊が、清水中隊長と、
岩山小隊長に引率されて、汽車で佐世保市に行き、海軍軍需部に押しかけた。
 そして、強引な交渉がなされたのであろう、陸戦隊1コ中隊の標準武装の兵器を受
け取ることになった。

 それは、    99式陸式小銃 30丁、拳銃9丁、装備弾薬小銃弾銃1丁につい
て、
300発、拳銃は、90発、チビ弾数箱、破甲爆弾数箱、ダイナマイト数箱、導火
線等の引渡しを受けるために、佐世保市の地形を利用して、掘ってある、横穴式ト
ンネル倉庫に連れて行かれた。そこには、我々には、驚くほどの兵器が゜蓄積保管
されていた。それを、伝票に従い係りの兵隊から受け取るのであるが、そこは、海
軍名物銀蝿の要領で、武器は、定数であったが、弾薬は、規定の数倍の量が持ち出
されて、帰隊した。(数量については、記憶が怪しいので?????)

 この行動は、清水中尉の前任地が、海軍軍需部であり、軍需部の事情にある程度
精通しておられたところを、岩山小隊長たちの、過激な意見で、仕方なく、その様
な役割をされていたのではなかろうかと思う。

 数日して、航空兵に対して、米軍の追及が厳しいといった情報が何処からかもた
らされたのであろう、我々は、憧れ、一番大切にしていた、予科練の軍帽と、桜に
ウイングマークの襟章の着いた、第2種軍装の焼却を命じられて、渋々ながら焼却
をして、飛行兵としての、跡形を消していった。

 私は、このころ、当時多かった皮膚病の疥癬に罹っていて、時々医務室に通って
いた。

 ここで、私の、予科練生活の中での痛恨事に遭遇することになる。


つづく


最終更新(1998/12/23)