船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第28回

清水中隊の八月十五日



<清水中隊の八月十五日>
 目まぐるしく、移動転属を重ねて、到達した、佐々での生活も、二週間が過ぎて
いた。只、本土決戦に備えて、水際陣地防備で、特攻肉弾攻撃要員が、我が隊の任
務であることだけが判っているだけで、具体的な方針は示されていず、どの地区
が、我々の、防備配置であるかも全く知らされていないところで、手探りの肉薄訓
練が繰り返されていた。

 お粗末な、爆薬兵器で、肉薄するには、投擲して、敵戦車に命中させなければな
らないが、それより、爆薬を抱いて、其のまま、敵戦車の動輪帯の下にもぐりこめ
と、教えられた。
 
 蛸壺壕から、飛び出して、爆薬を投擲して、また、壕に潜り込むなどと言った、
余裕はないであろうと想像していたので、肉弾で、戦車の下に潜り込む方法が最適
と考えていた。しかし、自分が、そのような場面で、実際に飛び込めるだろうかと
言った不安も時々過ぎることも有ったが、漠然とでは有ったが、自分に言聞かせな
がら、其のときは、潔く突撃し様思っていた。

 8月15日、部隊幹部には、其の日、待機みたいな指示があったのであろう、午
前中各小隊とも、教室で座学が、各小隊長を教官にして実施されていた。座学と
いっても、小隊長に、陸戦の専門的知識と経験があるわけではないので、要する
に、肉弾特攻についての決心でなければ成らないと言った意味のことを中心に時間
が過ぎていった。

 丁度、正午になる頃、衛生兵が、教壇の小隊長のところに、伝令としてやってき
て、耳元に囁いたら、小隊長は、我々に其のまま待ての令を出して、教室を出て
いった。

 我々は、何事であろうと言った、不審は有ったが、ホット気を抜いて、席に就い
たまま、数十分が経過したとき、岩山小隊長がアタフタと教室に入るなり、教卓の
上に胡座をかいて、どっかりと腰を据えて、我々を睨み付けるように見回した後、
忠君楠公の七生報国の古事を懇々ととき始め、我々にそのような覚悟を持てといっ
たような話の後、お前等の命を俺にくれと言った後、日本は負けたのだ、恐れ多く
も陛下の詔勅が有ったと告げられた。

 ついで、我々は、最後の一兵になるまで戦うんだ、皆、覚悟せよ、若し、事情が
有って、行動を共に出来ない者は、その旨申し出よ、じっくり考えて、決意してく
れ、詳しいことは、追って判るであろうから、直ちに、身辺整理にかかれ。
と言い残して、教室を出ていかれた。

 我々は、この様子を最初は、怪訝に思いながら聞いていて、敗戦と言う言葉をき
いて、一瞬唖然とした。

 それを聞いて、私は、『あぁ、死に損なった。これで、寿命が来るまでは死ねな
いなぁ。』次に、『あぁ、どの面下げて、故郷の人に会え様か、オメオメ、故郷に
帰れるのだろうか。』最後に、『負けて、残念だ、悔しい』といった、三のことが
心中こみ上げてきたことを今でも鮮明に覚えている。

 何故その様な順番に、なったのか、其のことしか、考えが及ばなかったのか、判
らない。とにかく、その三点のことだけであった。

 他の小隊は、他の教室であったので、事情は、詳らかでないが、篭城戦に入るこ
とだけは、言い渡されていたようである。

 昼食の時間が゜過ぎていたが、みな、只呆然自若、涙して、身の回りの整理も手
につかず、ヒソヒソと、周りの期友と、話をしていたようであるが、どのような内
容の話をしたかは、全然覚えていない。悔しいと言ったようなことは、言い合った
ようである。

 其の日は、そのまま、何することなく、虚脱状態のまま、日が暮れていったよう
であり、其の日の内には、何ら具体的な情報も、行動も無く、過ぎたのではなかっ
たろうか、思い起こせない。

 私の予科練生活は、これから、復員までの間に、色々なことを経験することにな
る。

つづく


最終更新(1998/12/21)