船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第27回

佐々青年学校での生活



 あわただしい、部隊編成で、曲がりなりにも、我々の予科練中隊も、模索を重ね
て、日課をこなして行くことになったが、士官も、陸戦隊について、専門家ではな
いので、戸惑いもあったことでしょう。

 我々も、水際陣地の、防備要員になったという、自覚をしながら、どのようにな
るか想像も出来ないで、始めのうちは、隊外に雑役に駆り出されることが多かっ
た。

 8月になって、数日経たころから、前回述べたような、攻撃訓練が、狭い青年学
校の校庭で繰り返されるようになった。

 清水中尉が中隊長として、着任された後の、或る日のこと、清水中尉の引越し荷
物を運ぶ要員として、同期のK県出身の16期生3名と、中尉の前任地の、下宿先
まで、中尉に引率されて、公用外出で、佐世保市に出かけた。

 下宿先は、海軍通船桟橋から、交通艇で数分、渡った地区にあったので、海軍に
入って、初めて、船に乗れたことは、船狂ちの私にとっては、ほんの一往復の数十
分間の僅かな時間であったが、内心欣喜雀気で、今でも予科練生活の中で、福空で
のリンクトレナーの適性検査に次いで、楽しい想い出として、心に残っている。

 佐世保は、海軍の街であるので、色々な階級の軍人と出会うのである、しかし、
引率者の階級が、其の集団の階級になるので、中尉以下の階級の者が、敬礼をして
も、被引率者の我々は、其の敬礼をしている者が、我々より上級者でも、中尉が答
礼をするだけで、敬礼は要らないのであるが、初めての経験であったので、非常に
まごついた。

 8月10日前後のことであった。海兵(江田島)出のN少尉が、コレスのよしみ
で、前田少尉(海機出)を尋ねられた際、N少尉は、K県K中出身で、私の先輩で
あったので、其のとき、K中出身者が呼ばれて、話をした。其の話で、数日前に、
故郷に帰ってきたとの話で、其の中で、私の故郷M駅は、空襲に遭っていないが、
隣駅前は、被害が出ているとのことで、安堵した。(しかし、これは間違っていたの
である、復員の事を書くとき述べます。)僅かで有っても、故郷の情報が聞けてうれ
しかった。

 其のようにして、8月に入って2週間近くの日数が経っていたのであるが、我々
の日課は、雑役に陸戦訓練と、区々の日々を過ごしており、あまり記憶に残ってい
るような事柄がないようである。

 しかし、其の頃には、広島、長崎の被爆の日があったわけであるが、我々には、
全く情報は伝わっていなかった。それだけでなく、戦況の逼迫はなんとなく感じ取
れて覚悟はしていたが、具体的戦況についての情報は知らされていないので、何処
からか、伝ってくる断片的な情報をもとに、あーでもない、こーでもないと言っ
て、想像を交えて同期生と話をしていた。

 福空で、陸戦隊編成に成り、14、15、16期の混成で、2け月近くを、多少
のメンバーが、転属のたびに替わったものの、殆どが福空以来の顔ぶれであった。
そのような事が根底に有ったからか、甲種飛行予科練習生と言った気分は抜けず、
練習生としてのプライドは強かった。

 この頃になると、14期は、上級者としての振る舞いをするのであるが、人によ
り性格が異なるように、中には、鼻持ちならない、振る舞いで、我々16期に当り
散らす人も居て、多少窮屈な思いもする日も有った。

 ここでの、罰直は、アゴ、腕立て伏せ、バッターといったもので有ったが、ゼロ
戦の急降下という罰直が編み出された。
 それは、下痢をしている者は、何か、余計な者を食べたのだろうと、テーブール
の上に真直ぐに寝て、頭と、両足を30度くらい上げて、くの字の状態になって、
其のまま頑張るのであるが、腹は下痢気味なので、腹の筋肉を引き締めなければ、
すぐに足が下がるので苦痛な事である。それに、首の下と脚の下には、日本刀の抜
き身が横にして、刃をむき出しているので、じたばたすることも出来ない、それ
は、苦しい罰直の一幕である。

 14期生の気分により、罰直は良く行はれたようである。
このような、生活の中で、旬日を過ごしたのであるが、そして、8月15日を迎え
たのである。


つづく


最終更新(1998/12/21)