7月末日近い日であったろう、度々の烏合集散の末、佐鎮第14特別陸戦隊第2大隊
清水中隊が、佐々青年学校の校舎を、隊舎として開隊したのである。
佐々は、松浦湾の内懐に位置する、海岸に接していたのであるが、青年学校は、
山手の小高い丘の麓にあった。木造2階建ての小さな建物で、2階に1教室、1階が2
教室と、別棟に、宿直室兼用務員宿舎があった。
我々2小隊(岩山小隊)は、2階の教室が割り当てられた。別棟が、士官室にな
り、数日後に赴任してきた清水中隊長、前田中隊付き士官と、菅、岩山、本田の第
1〜3小隊長と、中隊付き下士官と、新たに加わった、一等衛生兵の、7名という
多勢が、2部屋程度の狭いところに入ることに成った。
一つの隊が独立して、活動することになると、いろいろな、用務をこなさなけれ
ばならない。其の第一が、歩哨、夜警、営門哨兵などの衛兵業務であり、早速、1
5期生が、衛兵伍長の役割で、各小隊が持ちまわりで、衛兵当直をすることに成っ
た。
当時、青年学校には、日清戦争当時の陸式小銃(多分村田式で有った。)が、教練
用として、数拾丁有ったので、それで、武装(勿論、弾の出ない訓練銃である)し
て、哨兵当直に立つわけである。
食事は、数百メートル離れたところに有る、佐々国民学校に駐屯している第2中
隊の烹炊所に食卓番が受け取りに行くことに成った。
移動して、数日は、士官も連絡その他で忙しく、我々も、色々な雑役に駆り出さ
れていたようで、日課も定まらなかったが、我々としては、この編成で、敵の上陸
攻撃に備えて、水際作戦のための任務につくことに成ると言った程度のことが、分
かってきた。
数日して、雑役がない小隊では、陸戦訓練を始めたが、隊の中で、陸戦に精通し
ているのは、中隊付き下士官一人で、手探りでの訓練で、其の内、マルト兵器??
が我々の装備になるらしい、そして、それらをもって、水際で、敵戦車や、上陸舟
艇に肉弾攻撃をするのが、我々の隊の任務であると言ったことが判明してきた。
其の兵器たるものは、現在の感覚で考えると、荒唐無稽の玩具みたいな、粗製濫
造、間に合せみたいな兵器で、それでも、サンプル程度の模型が支給されていて、
只、形を想像できるのに役立つ程度であった。
狙撃銃=現在の狙撃銃と言えばゴルゴ13に出てくるような、スコープ付の命中
精度の高いものを想像されるであろうが、さにあらん、99式陸式小銃も、全員に
支給出来ないほど、欠乏の時代であり、その銃たるや、鉄パイプに、装弾構造と撃
鉄と引き金が作りつけられた、手製の鉄砲である。それはもう、子供の兵隊ゴッコ
でも、もっとマシな玩具を使って居たであろうに、敵と合間見えて、対峙しようと
する兵隊に装備するにしては、笑い事では済まされなかった。
箱爆雷=海軍で各人に貸与され使用していた、家庭配置薬の箱程度の、木箱を利
用した爆雷で、箱に爆薬を詰めて、長い紐を雷管(起爆薬)と連動させて、その爆薬
の入った木箱を戦車の動帯に投げて、紐を引っ張って爆発させる仕組みのものであ
る。
棒地雷=4x6センチの楕円形状で、約60センチ程度のブリキ製棒状のもの
に、爆薬を詰め、それを竹竿の先に括り付け、戦車の下に敷かせて爆発させる構
造。
円錐爆弾=直径25〜30cm高さ25cmぐらいの、ブリキ製の円錐形のもの
で、底辺の平らな部分が頭で、突起をつけてあり、これが信管を作動させる仕組み
で、逆円錐形を、竹竿の先に取りつけて、直接戦車に突きつけて、爆発させる構
造。
破甲爆雷=これは、亀の甲みたいな形をしており、これは、本格的工場製品で、
手のひらに乗る程度の大きさで、磁石がついていて、戦車の外板に吸い付かせて、
爆発させるもので有った。
チビ弾=陶器製で、丁度茶碗蒸の器みたいな形をしていて、戦車の銃眼や窓等の
開口部から投げ込み、目くらまし程度の爆発と、ガスが発生する仕組みのもの。
このような、装備で、水際陣地を構築して、蛸壺等の遮蔽に一人一人潜み、上陸
してくる戦車に特攻肉弾攻撃をするのが、我々予科練中隊に与えられた任務であっ
た。
以上のようなことが、分かって来ては居たが、我々が、配置に就く、海岸には行
くこともなく、大八車に、戦車の仮装をして、模型の爆雷兵器を使って、肉薄攻撃
の訓練を数日続けていた。
ここで、変わった事と言えば、風呂を近辺の民家に、各小隊毎、契約して、貰い
湯をすることに成り、交代で、午後の早い時間からバス当番で、貰い湯の民家に
行って、風呂沸かしの役務につくことであった。
我が小隊の、民家は、土地の写真館であり、同年輩の女学生もおり、当番の日
は、ワクワクしたものである。
そのころ、日本中各地が、B29や艦載機による空襲を受け、焦土と化してきて
いる実態や、ニュースなど、世間のことは、全く分からないで、其の日の日課に追
われて、てんてこ舞いをしていたのである。
つづく