船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第25回

日野から佐々へ




 予科練教育の中止の日から、たびたびの、編成替えや、転属を繰り返してきた。
その、ピッチがあまりにも短かったので、落着く暇も無く、それぞれの場面での、
業務、日課も定まらず本当に、右往左往の連続と、最下級の階級の環境に過ごした
ので、細かいことは、忘却の彼方にある。

 陸戦隊編成に成ったものの、正装の七つボタンの詰襟には、桜とウイングマーク
の刺繍の、襟章が゜、着いたままで、甲種飛行予科練練習生としての、襟度を維持
するため、誇りと意地は持っていた。

 編成されていた隊が、予科練の先輩後輩のみの集団であったことも、一層、プラ
イドを持って行動することにもなった。14〜5期生にしてみれば、とうに、予科
練教育は卒業して、飛練に進んでいなければならなかった時期であるので、我々以
上に、陸戦隊暮らしが不本意なものであったであろう。
 
 入隊して、数ヶ月を経過しているのであるが、福空での、教育練成で、特に、叩
きこまれたことは、予科練魂(予科練の歌、若い血潮にある、攻撃精神と、体当たり
の精神)であり、滅私奉公、死を恐れない精神、肉弾攻撃の精神と言った今考える
と,猛々しいものであった。

 勿論、志願入隊に当たっては、国家危急存亡の時節に、滅私奉公の覚悟は、持っ
て入ったのであるから、それらの、指導練成は、当然のことと受け入れていた。
 ただ、特攻で散るにしても、犬死はしたくない、何らかの成果をあげて死するの
なら依存は無いと言った気持ちが心中をよぎっていた。

 そして、もう一つ、願望しつづけたことがある。死に赴く前に、軍装姿で、母に
一目会いま見えて、別れを告げて、死地に赴きたいと言ったことがある。

 当時、数え年 16才の、年端の行かない少年がと、不思議に思はれるかも知れませ
んが、当時の、わが国の大方の国民には、理解が出来た常識的ことであったので
す。同期生の大部分の者も、似たような心境であったことを、戦後の同期生会等で
吐露している。

 移動の話に戻しましょう、佐々に移動することが分かって、我々には、或こと
が、話題になりました。それは、いよいよ、陸戦隊の正規編成の部署に就けると言
うことである。

 そのことは、我々にとって、大変関心事であった。われわれは、前述のように、
飛行予科練習生という、身分を背負い、また、そのような生活態度で、過ごしてき
ていた。
 陸戦隊の実践部隊の配置につけば、そこは、一般兵科の陸戦隊員と混成になるこ
とであり、一海軍軍人として、区署されて、日課、行動も、それに準ずることにな
るだろうと言った点である。
そのことに、期待と、危惧を混ぜ合わせたような話題を、囁き合っていた。

 そのように、一般兵科の兵隊と混成になると、味噌汁の数こそ少ないが、一応、
上等飛行兵の階級章をつけているので、我々より下級の階級の兵隊もいることであ
り、日課、仕来たり、処遇も、実践部隊風に変わるだろうと言った点が関心の最大
たる点であった。

 佐々の小学校に駐屯している、佐鎮第14特陸第2大隊に到着してみると、一般
兵科の中隊が待っていた。そこで、再編成がなされることに成るだろう待機してい
たら、その日の内か、翌日になっていたか定かでないが、我々予科練習生だけで、
一個中隊を編成して、近くの、佐々青年学校に宿舎を設定して、駐屯することに
なった。

 我々の、期待と危惧は、露に消え、青年学校に移ったのであるが、その時まで
は、中隊長は、着任しておらず、数日して、佐世保海軍軍需部勤務から、清水中尉
(予備学生出)が着任し、校門には、清水中隊と言う門標が掲げられた。


つづく


最終更新(1998/12/16)