船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第24回

大野国民学校から海軍工廠日野宿舎へ




 甲乙混成での、生活も旬日を待たず解隊となった。この期間は、ほんの、一週間
にも満たない日数であったが、重苦しい日々であった様に記憶している。そして、
この間に、私をはじめ数人が、私物の紛失を経験していて、本当に良い思い出はな
い。

 甲14、15、16期は、菅小隊長に引率されて、近くの国鉄の駅から、列車
で、日野駅に向かい、海軍工廠の第2日野工員寄宿舎に着いた。

 たしか、7月20日前後の日であったろう。工員宿舎には、既に、甲14,15、16
期の練習生が、2個小隊ほど、先着していた。その殆どが、福空での同分隊で顔見
知りの同期生であったので、安堵した。彼らも、佐鎮から、いずれかの隊に配置さ
れたものの、我々みたいに、甲乙の軋轢に遭ったり、何らかの理由で、日野に来て
いたようであった。

 そこに、集まっていた、士官は、中隊付き士官前田瑞穂海軍少尉(海機出)、菅小
隊長・本田少尉候補生(予備生徒出)・岩山少尉候補生(予備生徒出)それに、中隊付
き下士官柏木二等兵曹(砲術学校高等科出)であって、未だ中隊長は、赴任していな
かった。

 工員宿舎は、畳敷きの部屋で、木造二階建で、部屋は、大部屋で、約10丈ぐらい
の広さではなかっただろうか、14〜5名が寝泊りしていた。

 ここで、中隊編成が行はれた、各小隊長の出身県が、菅(大分県)・本田(福島県)
・岩山(鹿児島県)であった。編成について話を進める前に、今後の我々の行動に、
重要な関わりがあるので、各士官のプロフィールについて、記します。

 前田瑞穂少尉=機関学校出身で、乗る艦もなく、当時は、機関科配置の部署も無
かったのであろう、陸戦隊の中隊付き士官としての赴任である。戦後海上自衛隊に
入り、鹿屋基地隊指令を勤め、海将補で退職。
 
 菅少尉候補生=大分高商からの、予備生徒出身。前任地不明、戦後高商に復学と
聞いている。おとなしいタイプ。
 
 本田少尉候補生=東北の出身、予備生徒出身。前任地魚雷艇隊、戦後、生家の医
業を継ぐため医学校に進まれたとのこと。東北人らしく、朴訥で、温厚な性格。
 
 岩山安隆少尉候補生=鹿児島の士族の旧家で、父君は、陸軍少将で、南方軍の部
隊長、弟は、甲飛15期生、秋田鉱山専門学校から、予備生徒として、旅順で訓練
を受け、魚雷艇隊に配属されたが、艇の損傷により陸戦隊配備に着いた。西郷南州
先生に心酔し、頭山満門下の国粋主義者で、壮士風の熱血漢。

 このような、背景から、第1小隊小隊長菅・隊員は、主として、大分県出身者を
配す。
 第2小隊小隊長岩山・隊員は鹿児島・熊本出身者を配す。
 第3小隊小隊長本田・隊員は佐賀、長崎出身者を配す。  勿論、16期は、そのよ
うな出身で固めることが出来たが、14期は、四国出身者もいたり、15期も、
区々であった。

 わたしは、第2小隊に配属された。ところが、編成があって、小隊長の訓示が凄
かった。
『俺が岩山である。今後、お前等の命は俺が預かる。何事も、自分がこれと信じ正
しい思ったら、正々堂々と軍務に励め、若し、やり過ぎても俺が責任を取るから、
がんばって精励せよ』と言ったような意味合いであったようであり、その時、シャ
ツの袖をたくし上げた、右腕は火傷の跡が在りテッキリ、魚雷艇勤務時代の怪我の
跡かと思って見たりした。(後で判明したが、この傷は、幼少時代、さつま汁の鍋に
転んでの火傷の跡であった。)そのような、ことで、これはどうなることになるので
あろうと、身震いをしたものである。

 ここでの、日課も、佐世保市内の民家の解体家屋の整理に何日か、従事したよう
である。
ここの、工員宿舎の別棟には、当時、半島からの、徴用工員が入っており、夜に
は、故郷の歌(アリランなど)が聞こえてきた。私たちは、石鹸とタバコの物物交換
をしたりしていた。(練習生には、タバコの支給は無かった)

 ここでの、面白い想い出は、総員起こしのの前に「総員起こし15分前、南京虫取
り方はじめ」と言う、奇妙な号令が出されていたことである。
 南京虫は、この地方に多く発生していて、これに刺された中隊付き士官は、免疫
が無く、体中発疹が出ており、練習生にもそのような症状が、出ていたのである。
 号令に従い、ソット起きて、蚊帳に張り付いている南京虫を退治するのである。
(南京虫は、闇の中で活動して、少しでも、明るくなると逃げて隠れ様として、蚊帳
の出口を阻まれて、攀じ登っていて、それを見つけて退治していた。)

 ここでの、生活も旬日に満たない内に、移動することになる。
移動先は、北松浦郡佐々村にいる、第14特陸第2大隊に編入とのことで、国鉄の
駅で次の次ぐらいの、佐々への移動となる。


つづく


最終更新(1998/12/15)