船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第23回

針尾島から佐世保鎮守府へ




 針尾海兵団での、仮滞在は、2〜3日ぐらいの、短時日であったようで、過ごし
日々の行動ゃ行事は、記憶に残っていない。ただ、針尾に仮宿したことだけが記憶
に残っている。
 
 7月の上旬の日であるが、いよいよ、佐世保鎮守府に向かい、佐世保鎮守府第1
4特別陸戦隊に編入された。

 移動は、徒歩で、針尾を後にして、佐世保鎮守府の正門を潜ったとを記憶してい
が、なにか、交通機関を利用したような思い出はない。

 ここでは、福空から一緒に移動して来たグループの1コ小隊程度の、約30数名
が、我々を、引き取りに来ていた、菅少尉(予備生徒出身)に、引率されて、佐世保
市第一大野国民学校に引率されていった。

 すでに、乙飛の練習生隊が、30名程度在隊していた。
ここで、甲、乙の両予科練習生が、混成の中隊を編成したことで、いろいろな、軋
轢を生み色々なことを経験することになった。

 乙の先任は、飛行兵長(乙18〜9期 ?)で、甲14期より、先任であり、つい
で、甲15期の飛行兵長となり、甲16期我々上等飛行兵と乙23期の上等飛行兵
といた階級の混成になったが、乙23期の上等飛行兵の進級は、我々甲16期と同
じ7月であり同列であるが、乙23期の入隊は、甲16期より数ヶ月早いのであ
る。つまり、味噌汁の数が多いのであった。

 このような、序列があるので、一応、乙飛の兵長が先任として、隊の運営がなさ
れていくことになった。

 ここでの、日課は、空襲に備えて、強制疎開した空家を解体して片付ける作業に
出ていた。食事は、近くに在った、小さい軍需工場(砲弾の加工中の弾頭を錆取り研
磨する作業を勤労動員中の女子挺身隊の女学生が従事していた)の炊事場に、受け取
りに行っていた。

 宿舎での、日課では、甲、乙両予科練習生が、互いに、込みやられない様に、張
り合って、特に我々甲16期に対して、甲14期からは、乙に込みやられるのでは
ないぞと、徹底的な叱咤が出されていた。勿論、我々16期も意地の張り合いで精
を出した。15期生から、ねだられたりして、困ったことを覚えている。

甲板掃除では、それ、おせー、おせー、回れと這いつくばりながら、乙との我慢
比べみたいな様相を醸し出していた。

 ここでの、清涼剤は、食卓番で、少し離れた、軍需工場の炊事場に食缶を取りに
行く時である。それは、挺身隊の女子学生に、予科練さん、特攻隊さんといって、
慕いよられる事があるからであり、食卓番は、我々甲、乙の上飛の役割であるか
ら、15期に羨まれたのである。

 私は、在る日、当時流行していた、手作りのマスコット人形(現代のキーホルダー
みたいなもの)を、女学生が、搭乗員にプレゼントするように、貰ったのである。そ
れからは、先輩の飛長からねだられたり、冷やかされたりで散々だった思い出があ
る。

 ここでの、罰直は、乙の飛長がやると、甲の飛長がやると言った按配で、数回経
験している。そして、竹製のバッターが使われた。叩く側と叩かれる側の呼吸が
合ったときは、あまり、ダメージはないが、振り下ろされる間合いを計りながら待
つ身になると、何時振り下ろされるか、尻の筋肉を閉めたり緩めたりで大変であ
る。

 或乙の飛長で、素人が金槌を使うとき、外さないように、本打ちの前にコツコツ
と小さく試し打ちする様に、尻にバッターを当ててコツコツとして振りかぶられ
て、多少間があいてからバシッーとやる人がいて、あれは、気持ちが悪かった。

 バッターは、普通一回に、3〜5本ぐらいで、この程度では、尻が痛いが、何日
も
痛みが続くことはなかったが、的が外れて、太股の下のほうに当たったり、尾底骨
ああを叩かれると痛さは倍増した。

 ここでの、生活は、長くは続かなかった。多分、甲乙の混成が円滑に行かないこ
とが、他の隊でも在ったようで、ものの、一週間ぐらいで、乙飛の練習生と別れを
告げて、我々甲飛の練習生だけで、大野国民学校を後にすることになる。

つづく


最終更新(1998/12/14)