船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第22回

福空から針尾海兵団へ移動



 いくつかの集団に、区分され、名簿確認がされた。とにかく、我々には、詳細
な行き先は、正確には分からないので、只、陸戦隊として、転属していくことだ
けは、想像できた。

 いよいよ、福空を後にすることになり、周船寺駅に向かい、特別仕立ての、列
車に乗ることになった。その時点で、当面の行き先が、針尾海兵団であることが
分かった様である。
 
 当時の、針尾には、海軍が、陸軍に若年兵を、青田刈り(陸軍は、幼年学校、
少年兵制度などが古くから在り、小学校卒業後1年ぐらいすると入隊資格があっ
た。)されるのに対抗して、S19年度から募集をはじめた、海軍予科兵学校(中
三卒資格)・特別幹部練習生制度(中三卒資格、陸軍の特別幹部候補生に対抗して
の制度)による、学校および練習生隊と、海兵団が、設置されており、S20年7
月時点では、海軍予科兵学校の生徒は、岩国に新設された、海軍兵学校分校に移
動していた。

 憧れの七つボタンの夏正装(戦時色、ライトブルーグリホン色に染め替えてある)
を、着用しての、移動であるので、しばしではあったが、予科練を志願して、予
科練習生の気持ちを確かめるような心境であった。

 列車は、博多径由鳥栖を経て、早岐駅までの旅であったが、途中車窓は、ブラ
インドを命ぜられていて、景色を眺めることなく、少し残念であったが、同期生
同士で、いろいろな話ができて一寸ばかり、気の休まる時間が持てたようである
が、その時の、話題は、行く先ののことが中心であったようであるが、思い出せ
ない。

 鳥栖駅で、小休止の時間があったので、そっとブラインドを下ろして、ホーム
を眺めることができた。フトその時、目に付いたのは、女子の駅員がいたことで、
その顔が、郷里で汽車通学していた時分に、見かけていた、某女学校の生徒に似
ていて、動員でここに来ているのかと思ったりした。

 同期生同士の語合いも、先輩の上司もいるので、遠慮がちに話していたようで、
あまり、にぎやかな雰囲気ではなかったように、記憶している。

 いよいよ、早岐駅のホームに降り立った。そこから、海兵団に向かって、徒歩
で行くことになった。距離は、定かでないが、1〜2KMではなかっただろうか、
ところが、14期生の衣嚢は、前にも述べたように、海軍古来の正規の装備で、
帆布製で直径40CMぐらいで、高さ120CM程度の棒筒状の型式で、担がな
ければならないので、我々16期生は、リュクサック式で、背負っているわけで、
そこで、駅の土場にあった、丸太棒を見つけて、14期生の衣嚢を、二人で棒に
ぶら下げて担ぐことになった。

 海兵団に着いてみたら、兵舎は、2階建で、ハンモック式の居住区の様式にな
っていたが、我々は、床に、毛布に、包まっての仮宿生活が始まった。

 ここでの、仮入隊期間は、数日であったが、西も東も分からないままの、右往
左往の生活であり、雨の日も在り、この地は、赤土土壌で泥濘に難行苦行した。
それに、雨で、正装が濡れて、着替えの支給品を持っていないので、仕方なく下
着のままでいたら、海兵団の下士官にどやされたりで、びくびくしていた。

 数日の、仮入隊の期間であったが、その間に、14期が、徒歩移動のとき衣嚢
担ぎに利用した、丸太の端を握れるように削り上げて、バッターに仕上げ、それ
で、入隊して初めての、バッターを見舞われる経験をしたのである。

 その時の理由が、定かではないが、移動その他で、多少気合がぬけ、ダラダラ
したように見えたのであろう。そこで、一発気合を入れるといったことであった
のではなかろうか。

 初めてのことで気を揉んだが、シッカリと、尻を引き締めておれば、叩くほう
が、的をはずさない限り、痛いが怪我はなかった。


つづく


最終更新(1998/12/14)