船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第20回

編成替え発令の頃の出来事




私は、知らなかったのですが、戦後同期生の話で、我々の編成替えより早い時期に、
16期の、数分隊が、大村の海軍航空隊等に基地要員として派遣されていたそうであ
る。

近くの兵舎に居るのですが、毎日の日課に追われて、ユトリのない日々を送っていた
のでそんな事も判らず仕舞でした。

教員助手 桜花要員として、石岡空へ転出
5月の末近く、我が分隊の教員助手として、本当に、兄みたいにして、いろいろな事
をを指導してもらったのであるが、当時の戦況逼迫で、それまで甲飛では、13期ま
でが、飛練ないしは、水中(回天)・水上(魚雷艇)方面に進出していたが、14期
が、そのような実戦部隊に進出するような事態になってきたのであろう。

3人の教員助手(14期生飛行兵長)は、操縦分隊所属2名、偵察分隊所属1名の
方々であったが、転出の前夜の巡検終わりの後、我々の寝台を巡り、みんなの、寝顔
に別れを告げながらそっと立ち去られた、光景をたまたま目覚めていたので、垣間見
た思い出が残っている。

< 入隊4月ごろの、白菊特攻隊の仮在隊 >
4月の初旬間、烹炊所の食缶洗い場で、飛行服姿の、一等飛行兵曹が、食缶洗いにき
ているのに出くわすことがたまたまあった。
一般兵科では、下士官が、食卓番をすることはないのであるが、飛行科では、若輩搭
乗員が下士官であるため、食卓番もこなさなければならないのである。

さて、白菊特攻の隊は、前線へ進出のため、外地にあった基地から、移動途中の中継
訓練基地として、仮在隊していたので、見かけたのは、数日の間であった。

白菊隊は、機上作業練習機(本来の用途は、偵察要員の機上偵察訓練に使用されて居
た3〜4名載りの機体)で編成されていた。

入隊数日の我々は、食缶洗いでも、おぼつかない様であったのであるが、先輩の搭乗
員の手さばきは、見事で、その風情からキリットしたものが感じ取られ、われもこの
様に成りたいと、身震いしたような思い出もよみがえってきました。
在る日、貴様は何期か、俺は、乙の何期だといわれ、頑張れよと声を掛けられたこと
もあった。

< 沖縄方面出撃機の不時着 >
当時、K県にある、陸海軍の航空基地からは、総力を挙げて、沖縄戦の最中であっ
た。
5月の在る日、陸軍の偵察機が、福空の飛行場に舞い降りた。
事情は、天候不良で、機位を見失い、我が福空に不時着したとの事。
当時は、航法援助施設は皆無で、無線も封鎖に近く、地上から誘導もなく、搭乗員の
腕に頼っていた時代であるから仕方のないことである。

陸軍さんであるから、当基地の関係者は、十分なもてなしの上、帰隊してもらったと
聞かされた。

我が分隊の、分隊長は、福空の掌整備長を務め、甲分隊士は偵察の士官として、偵察
関係を束ねていたので、その話を聞いたのであ。

ところが、数日して、海軍の天山艦攻機が、前述のような理由で、不時着したとき
は、海軍の偵察員が陸式みたいに、機位を見失うとは、たるんでいるといって、相当
絞られた挙句帰隊していった。

当時、陸軍は、洋上推測航法が未熟であったため、長途の陸海協力の洋上進出になる
協同作戦は、難しかったようである。

< 海軍の階級の表記 >
海軍は、何でも略することが得意のようで、海軍の隠語にも傑作な言葉があること
は、皆さんご承知のとおりのことです。

一等飛行兵をイッピ、一等水兵のことをイッスイと読んだりしている。下士官の場合
もイツピソウと同様である。
士官の階級で、大尉と大佐は、ダイイ、ダイサと濁り、大将は
タイショウで濁らないのである。
よく、○○ダイイは云々と呼ばれていた。
多分、昭和17年に海軍の軍制に大改革があったことは、海軍マニアはご承知のこと
ですが、それまで、兵から昇級していった士官は特務士官、商船学校出で士官になっ
た者は、予備士官と区別して呼ばれていたのが、我々の時代では、士官にそのような
区別はなかった。
しかし、あの有名な海軍承行令??は厳然として残り、兵学校出身の正規士官が優先
順位の命令権者となり、ついで海軍機関学校出の正規士官という制度があり、前線で
の軍運用に齟齬をきたした面も戦後反省として、出ている。


つづく


最終更新(1998/12/12)