船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第2回

予科練合格から入隊までの、いろいろ




  記憶は定かでないが、s19年12月か、s20年1月に、海軍甲種飛行予科練習
生に採用するとの通知を受けた。
 
 採用通知書には、s20年3月27日に、福岡海軍航空隊に入隊せよとの事で、軍
用乗車券購入証明(無料)に、周船寺駅までの記入がしてあった。

 大望の、合格で有頂天になって、毎日が楽しかったが、両親とりわけ、母親の心中
は如何なものであったか、当時では、思いをはせることは出来なかった。
 
 福岡海軍航空隊についての予備知識は何も無く、周船寺駅ということで、福岡市の
隣接の地にあることを、地図を頼りに調べました。(勿論当時の地図には、福空等の
軍事施設の記載は無く、雁の巣飛行場等の民間飛行場の記号のみあった。)

 K中の同学年から同じ志願した友の中、数名が合格していましたが、3月福空入隊
のものは、出發の日に駅頭で出会った I君が一人で、上級生のクラスの合格者が数
名いた。 誘い合って受験した友や、他中学の友は、殆ど16期後期回しで、6月,
7月と入隊期日が遅れて、防府海軍通信校、奈良空入隊とのことであった。

  3学期は、友や、教師からも祝福を受けると共に、予科練入隊予定者ということ
で、一目置かれていた様で、自身も慢心気味で、エスケープしたり、当時禁止されて
いた映画館に出入りしたり、得意満面の生活態度をとっていたようである。

 当時の,戦況は、米軍の北上作戦が激烈になり、沖縄方面に、米機動部隊の艦載機
による、攻撃が始まりつつあった。
 ついに、3月6日には、吾が故郷の上空にも、米艦載機が単機で、飛来して、機銃
掃射をするといった戦況下が在った。

 当時出征する時は、盛大な壮行の宴を催していたので、学友の壮行の宴に出たり,
語らいをしたりして3月は、瞬く間に日にちを重ねて行き、私も生家が、国鉄の支線
の駅前旅館兼割烹旅館を営んでいた関係で、二晩に亘り盛大な入隊壮行の宴を披いて
もらった。
 予定より一日早く、3月25日故郷の駅頭で盛大な壮行式で大勢の人に、歓呼の声
で送られて、故郷を跡にして、K市の親戚の家で一日の日程調整をした。

 すでに、3月25日頃は、毎日、沖縄方面から米軍艦載機による編隊爆撃や、偵察
飛行の洗礼を頻繁に受け、臨戦状態の雰囲気が高まりつつあり、26日には、K航空
隊の空戦訓練中の零戦が、米機の攻撃を受け、煙を吐きながら、海面すれすれ低空で
K空港方向に必死の着陸を目指しているのを目の当りに見まして、身がたぎる思いを
しました。

 26日灯火管制下の暗い、K駅頭に指定列車に乗るべく集合したら、福空入隊者が
県庁の引率世話役のもとに集まっていました。
 私には,父がどうしても福空まで同道すると言って一緒でした。 列車は灯火管制
化のK駅頭を発車したが、数駅過ぎたところで、空襲警報が出て進めなくなり,とう
とう、K駅に引き返し、翌日同時間再出発する事になり、結局28日に一日遅れで福
空に入ることになります。 空襲による再出発に当たって、父とはK駅頭で別れた。


つづく


最終更新(1998/12/12)