船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第15回

飛田健次郎 大佐 を思い出して




福岡海軍航空隊司令飛田大佐について、記憶を頼りに、プロフイールを綴ります。

駆逐艦関係の戦史を読まれた方は、この名前をご存知かと思います。
スラバヤ海戦記や雪風の艦長としても登場する、豪放磊落な薩摩ぽ,海軍軍人です。

司令は、鹿児島海軍航空隊の予科練隊の当時の司令岡村春基大佐(海軍の航空関係で
は、有名な方です。ので何らかの資料でご承知の方も有るでしょう)の下で、副長と
して、予科練当時鹿児島空には、甲、乙の練習隊が在隊していた、予科練の教育に携
わっておられ、昭和19年秋に、戦局の関係でしょうが、鹿児島空は、戦闘機中心の
実戦部隊に明渡し、新設の福空に、甲飛14〜15期と共に、一部は、小富士分遣隊に移
動し、福空の司令に着任されていた。

我々16期は、飛田司令に迎えられたのである。

司令の、風貌は、インドのガンジーに良く似た顔立ちで、眼光鋭い方で、口ひげが良
く似合う方でありました。
我々は、愛称として、飛健さん、仲間同士では呼んでいた。

実に、慈父みたいな方で、我々は、心から慕っていました。もちろん、入隊したて
の、我々が、司令に馴れなれしく近づく訳には行かないのであるが、非常に近い存在
に感じさせるような、雰囲気を持った方であった。

福空では、バッター等での、罰直は、司令の命令で、厳禁との事であって、あまり無
かった。(隠れて、一部の場面で在ったが、皆無に等しかった。)

たとへば、ある朝、総員起こしの後、分隊全員が、兵舎周回の駈足罰直を受けている
のを、見つけられると、コラー何分隊か、分隊長も、分隊士も、教員も一緒に走れと
言って、叱咤されたこともあった。

この様に、前触れも無く、ふらりと、我々練習生の日課を視察にこられる事が、多
かった。
朝食の時間には、食事はたりるかと、質問されたり、娑婆では、食料が欠乏し苦労し
ているから我慢してくれ等と諭されたりしていた。

さて、前回の、予科練教育中止の訓示の事を補足説明します。

現職の司令が、『お前らは、海軍に騙されたんだ・・・・』等と、とても、発言出来
るような、時代背景ではないのである。海軍軍人の持っているリベラルな面があった
のかもしれませんが、聞いた私も驚きました。
そして、司令が我々によく言われていたことに、お前達は、生きながらにして神にな
る人であると言っておられた。

実は、戦後、司令は、鹿児島県の復員部の長として、在職の時と、県会議員の在職
中、鹿児島県の甲飛会に、来賓として出席された折、二回ほどお話をする機会があリ
ました。

その時の、問答を辿ってみます。

福空でのことについて、例の、海軍に騙されたんだと言われました。と聞いたら、
『俺は、あまり覚えていないが、それくらいのことは言ったかも知れない』との事で
した。

お前らは、神様の件については『俺は、かねがね、若い予科練の純真な尽忠報国に燃
えた、けなげな姿を見ていると、神々しく見えてくるんだ。若くして穢れののない真
摯な報国の志に打たれていた』との返答がありました。

つぎに、罰直の件については『俺は、駆逐艦乗りだ、一回も、菊のご紋章のついた艦
には、乗ったことが無い、だから、兵員の苦労は、良くわかっているつもりだ。だか
ら、陰湿な罰直は、嫌いだから厳しく戒めていたのだ』と答えられました。

この様に、慈父みたいな、暖かい司令で、私達は、随分助かった者です。
司令の一部分だけしか見ていないのですが、戦後、我々の分隊士や教員の方にあった
ときに、その話をしますと、飛田司令は、本当に良い人であったと懐かしく言われて
いました。

菊のご紋章のついた艦
海軍のことを資料で調べておられる方は、承知の事でしょうが、補足説明します。私
の記憶も怪しいのですが・・・・・・・
海軍では、戦艦を始とした、軍艦と、駆逐艦等の補助艦艇の区別があり、補助艦艇に
は、舳の菊のご紋章は付けられていません。
では、軍艦群の艦が、駆逐艦より優秀艦かといへば、そうではないのです、建造年月
の古いボロボロにみえる砲艦が、軍艦であったりするのです。詳細な区分について
は、忘れましたが、そのような角度で写真集などをひもどいていくのも楽しいです
ね。


つづく


最終更新(1998/12/12)