船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第16回

予科練教育の中止




戦況逼迫で、予科練教育の中止・聯合練習航空隊の解体と言うことになり、福空の、
教育中の甲飛16期生は、飛行場構築整備作業に入ることが下命されたのである。

戦後、飛行練習課程に進めなかった、予科練を揶揄して、土科練と言われた所以にも
なった。
5月上旬の、達しの有った翌日から、土方作業に入った。

朝食の際に、時代劇映画で見られるような、柳行李の小さい型の弁当に、昼食を詰め
込み、風呂敷で包み、右肩から袈裟に、背負って、兵舎群基地敷地と町道を隔てた、
数百メートル離れた飛行場に向って、土工作業に就いた。

福空の飛行場は、田園地帯を、整地して、ペトンで固めた滑走路が一本在ったのであ
るが、配置された、海軍設営隊の部隊により、細々と、滑走路の補強作業が進められ
ていた。

我々も、それに協力する体制で、作業に就いた、その時の作業は、大きな栗石を、ハ
ンマーで砕き、滑走路に敷詰め、蒸気機関駆動のローラーで、点圧していくのが、主
たる仕事で、時には、原石を、小さい機動車に引かれたトロリー連結のトロツコに乗
り、原石の運搬にも当たった。

栗石割の作業は、モッコを担ぎや、ハンマー振るいに力がいり、難儀な仕事であっ
た。
当時の、我々の平均的体格は、数え年15〜6歳で、身長は、1メートル55センチ
ぐらいで、現代の、小学校高学年程度の体形であったので、馴れない、土工作業に
は、難渋した。

しかし、隙間無く訓練に追われる、今までの日課からすると、息抜きも出来るし、私
語も出来るで、教育の中止と言った無念さがあったが、それは、違った意味での開放
感に浸っていたようである。

また、昼食時に、設営隊の隊員と、相対して話をした。
当時の、設営隊の隊員は、召集兵で、年も、40歳前後で、我々にとっては、父か、近
所のおじさんと言った感じがして、話掛けたものである、しかし、彼らの階級は、二
等水兵、我々は、たった、一月の海軍生活のみで、一等飛行兵になっていたので、設
営隊員は、階級を気にされて、硬くなられる、我々は、練習生の身分で、左程階級を
意識していないのであるが、そこは、軍隊の中での相対なので仕方が無かったが、ツ
イ、おじさんと声をかけ、身の上話をしたのを覚えている。

そのような作業を、数日続けて居た折、飛田司令の巡視があり、司令から、「予科練
生は、身体発育途中であるから、あまり、無理に作業を進めては成らない、昼休み時
間を延長して、午睡の時間を設けたら」との、指示により、午睡の時間が設定され
て、大分楽になり喜んだものだ。

さて、そのような、喜びも、永くは続かなかった。それは、月が替わると、状況・環
境とも条件が急変するのである。(これは、今後の、回で詳述する事になるので、そ
の項に譲ります。)

< 入隊から5月までの、体験したこと、 >
今まで、いくつかの、エピソードと、軍隊生活の内容について述べましたが、ここ
で、その他,記憶に残っている事柄について記してみます。

記念写真
海軍では、よく、写真を撮る風習があるのであろう、古い軍隊写真集にも見られる通
り、帽子に名前を書いて,分隊全員の写真がよく出てくる。
我々も、入隊式の前に、帽子に名前は入れなかったが、分隊総員百二十数名が分隊長
を中心に、記念撮影をしている。相当大判の写真であるが、総勢百名以上が収まって
いる上に、七つボタンの制服で帽子をかぶっているので、戦後それを見ても、自分を
探すのが難しい、大体この辺の列だったがと、見当つけてみても、同僚ともども、幼
顔をしていて、中々判別もつかず、同期生と、これがお前だ、あっそうかと言った具
合で、爆笑の種になっている。

巻き脚胖(ゲートル)
ゲートルと言っても、現在判る人も少なくなってきている。
海軍の巻き脚胖は、上海の陸戦隊の写真等で見られるように、帆布製のこれも、日本
固有の手甲脚胖のような様式の、格好をしていて、短靴の足甲をカバーするような覆
いがあり、一枚の脚胖を、足袋のこはぜを合わせるようにして、脛の部分を包み込む
ようになっている脚胖であった。陸軍式の巻き脚胖は、編上靴に、足首から約8セン
チ幅の帯状の脚胖を巻きつけるのであり、我々からしてみれば、ダサイ感じがしてい
た。
ところが、我々16期に支給された、脚胖は、それなのである、海軍式のあの、脚胖で
はないので、いささか、がっかりしていた。前線の陸戦隊では、相当以前からそのよ
うになっていたらしい。14・15期は、海軍式のものであった。
この、巻き脚胖は、上手に巻かないと、巻きが崩れることに成って始末に悪いことに
なった。
当時、娑婆では、女性はモンペ服、男性は国民服に巻き脚胖姿が、普通であった。

< 上陸 (休日外出) >
私は、二回の外出を経験している。
海軍では、准士官以上は、当直以外は、毎晩外泊上陸(海軍では入湯上陸という。)
が許されていた。下士官と古参の水兵には、3日に1回程度の割合で、入湯上陸が
在った。
入湯上陸でも、夕方から外出して、巡検前に帰ると言った制度もあったようである。
しかし、練習生には、入湯上陸は許されない。


5月に入っての、日曜日に、半舷上陸(分隊の半分)で,班長の引率で、班長が探し
た、指定倶楽部につれて行かれた。我々の倶楽部は、隊から歩いて、小一時間近く歩
いて行くところであるので、午前午後に分けての半舷に上陸で、時間は正味四時間程
度なので、そこそこに倶楽部を後にするのである。それに、後一回機械があったが、
その時は、倶楽部まで到着しないで只、町を歩いて帰隊した様で、あまり楽しい記憶
が無い。
当時は、既に、食料は欠乏しており、酒保品もなく、上陸で買い食いすることも出来
ない
状況で、クラブも、良い所は、既に先輩の期の倶楽部になっており、我々のときは、
クラブの家族との交流も出来る環境でもないし回数も少なかった。

上陸の手続き風景は、上陸員整列の号令で、当直士官事務所の前に、風呂敷包みの弁
当を小脇に抱え、上陸札(分隊班氏名が記入してある名札で、裏に、上陸承認の分隊
長の認印が押してある)をもって、整列していると、順次副直将校が、上陸札いれの
盆を持った当直下士官を従えて、各人の、所持品検査、服装検査、容儀検査をして行
く、その時、上陸札は、下士官の盆の中に入れる。

予科練は、スマートで几帳面を旨とするときつく躾られていた。しかし、海軍では、
上陸の際の服装点検は厳しかった。そのとき、少しでも乱れがあると、即上陸禁止
か、帰隊後班長にしごかれる。

それから、隊門までは、列を作って団体行動であり、代表が、歩調をとれと号令をか
け、衛兵司令に敬礼をして、隊門をでて後、個々の行動になるが、さあ、隊外にでる
と、自分より階級の上の者と、出会うと、挙手礼をしなければ成らない、当然一等飛
行兵の身分では、敬礼の連続になることは、当り前のことであるので、あまり、軍人
と会わないところを選んで行くことになった。下級兵の間では、階級より海軍の味噌
汁の数、つまり、古参の程度をもって、差別をする風習があった。

これは、艦隊勤務でのシーマンシップの練度に、勤務の経験の差により、歴然として
くるので、経歴の長さが自慢になっていたのだろう。
シーマンシップは、陸上では経験の出来ない体験により、船乗り特有の所作・技能が
身につき、いわゆる、汐気たっぷりの風格が滲むようになるのであるが、ただ、年季
が永いだけで威張る兵隊が多かった。

帰隊時間に遅れたら大変なことになることは、皆さんも知っておられる通りで、我々
新兵は、その怖さと時間調整に見当がつかないので、早めに隊門を潜る、そして、当
直将校事務室の前に並べてある上陸札を受け取り兵舎に帰るのである。
分隊では、時間をたがえる者が出ないかと、心配しながら班長が待っている。

半舷で、残った者は、時により違ったが、軽作業あり、自習あり、身の回り整理の時
間が与えられ洗濯したり、時としては、演芸会が持たれたりしていた。
そのようなことで、番の回りにより、きつかったり、楽したりで、まちまちに成っ
た。

< 教員の入湯上陸 >
班長(教員)は、下士官であるから、週に一回か、二回の入湯上陸が、交替である。
上陸する教員は、午後の別課時間のあとは、服装を整えたり、靴を磨いたりで、ウキ
ウキした気持ちになられたようで、顔は、微笑んでいることが、我々にも判ることが
あった。
ところが、当直で残る教員は、あまり面白くないので、その、鬱憤晴らしで、我々の
巡検後の罰直が長くなることもあったように覚えている。
また、上陸で楽しかった班長の、朝は、ニコニコご機嫌である。
班長は、上陸する時は、夕食は、早く済ませるのであるが、残すので、その班の誰か
がおこぼれに預かりにんまりとする事になる。

< 我々の入浴 >
在る日、バス用意急げの号令が掛かった。ハテナ今からバスに乗って何処に行くんだ
ろうと、怪訝に思いボヤボヤしていると、何をグズグスしているか!!タオルと石鹸
を持って早く整列しろである。そこで、初めてバスとは、入浴のこととわかり、大急
ぎで集合する。

約千名近い16期の兵舎群に、浴場は一つであるので、分隊を順番で、週二回程度か、
それ以下だったろうか、入浴があった。

さあ、その入浴が難行苦行なのである。脱衣室で裸になり浴室に入ると、そこには、
バッターを片手に浴場当番の兵隊が待ち構えており、それ、体を少ないかかり湯で良
く洗え、次ぎは、浴槽に入れと号令をかける。

初めてのことで、まごまごしていると、ボヤボヤするなと、バッターをトンと叩い
て、怒鳴られる。
浴槽は、板張りの肩ぐらいの深さの浴槽で蒸気で沸かす方式であったが、我々が入る
ときは、お湯の量は、約40センチぐらいの深さで、とてもゆっくり浸るなどトンでも
ない。それに、数分もすると、揚がって交替でありる。

最初裸になって、大事な部分を隠していたら、こら何を女々しいことをすると怒鳴ら
れ、浴槽に入る時は、タオルを畳んで頭の上に載せることを躾られる。

約15分ぐらい間隔で交替して、次ぎの班または、分隊が入ってくる仕組みになってい
たので、脱衣場での、衣服の紛失、取違があるので、入浴は、あまり、良い記憶に
なっていない。

< 用足し >
小用は良いのであるが、大の方を利用する時は、ドアーの外に、帽子を架けて、用を
済ませることに成っていたので、帽子の盗難に気を使いながら、ビクビクして気持ち
のよいものではなかった。

どうしてか、員数合わせのためか、紛失してしまうのか、何だかわからないが、官給
品は勿論のこと、私物などの盗難が良くあった。


つづく


最終更新(1998/12/12)