船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第14回

進級




特別教育(新兵教育)の1ケ月間が過ぎると、特別査閲である。

それと、5月1日付けで、海軍一等飛行兵に進級の、進級式があり、司令より、辞令
達しがある。 一等飛行兵に任じられるのであり、右袖の階級章も、錨の刺繍の上に
兵科識別バッチだけだった二等兵の章の上に、細い横棒一線の刺繍がつき、なんとな
く
格好がついてくる。

甲飛の当時の、進級は、
二等飛行兵     1ケ月  一等飛行兵  2ケ月  上等飛行兵 3ケ月
都合入隊して、6ケ月で 飛行兵長に進級し、予科練教育が終了する仕組みになって
いた。

ちなみに、我々、福空に入隊した16期生は、10月1日付けで、兵長に進級する仕
組みであったが、8月15日の終戦により、9月1日? 付けで、兵長に任じられ
て、予備役編入退職と言う辞令になっている。  
巷間言われる、ボツダム兵長になっているわけです。

< 特別教育終了 >
特別査察が終了して、一両日、課業日課にゆとりのある日が、続いた、そして、操縦
・偵察振り分けの適性検査が実施された。

適性検査
予科練の課程では、操縦員コースと、偵察員コースを適性検査で振り分けて、操縦分
隊・偵察分隊に再編成して教育が実施されることになっていた。

我々も、薄々感じてはいたのであるが、と言うのは、14期、15期の両期が、予科
練教育を終了したのに、飛行兵長として、未だ、在隊していたことや、連合練習航空
隊の解散・福空の隊門に、相浦海兵団分団と言ったような標識がつけられたりしてい
たので、戦況逼迫で、先行きを案じていたのである。

まさか、それから、数日後、予科練教育中止が下達され、予科練教育だけは、終了で
きるのでは,ないかと、密かに胸中に持っていた淡い希望が消えたのである。

適性検査に、話をもどそう。
戦後判明したのであるが、当時、甲飛16期の在隊していた、全国の航空隊で、16
期生に適性検査を実施したのは、我が福空のみであったと言う事実である。
これは、推測の域を出ないのであるが、当時の福空の司令以下上層部が、尽忠報国の
純真な心で、海軍航空兵を志願してきた、我々に対し、せめてもの、温情による正規
課業にもとずいた検査を受けさせようとした憐憫の情では、なかっただろうか、と言
う
説に、大方の同期生が頷くのである。

適性検査の内容
1.クレペリンテスト (現在でも、会社、職訓等で実施されているものと同じ)
2.身体検査
  a 握力・背筋力・視力・肺活量とうの身体検査
  b 眼球検査・斜視・視野の精密検査・視覚反応
  c 平衡検査(機器による静平衡・回転機による動平衡検査)
  d その他、運動神経に関する検査や観察力・計算力等の検査もあったようであ
る。
  e 地上操縦練習機(リンクトレナー)による操縦感覚の試験
 以上のようなものであった。

この、地上操縦練習機による検査は、約3分間づつ、3回リンクトレナーの席につ
き、最初はカバーを掛けないで、そして,悪気流設定もしないで、指示された各度の
旋回操作をするのであり、次ぎからは、蓋をされて、いわゆる夜間飛行の計器飛行状
態にして、しかも、気流設定がなされるので、難しくなる。

さあ、この、地上操縦練習機に、数分間でも、乗れたことは、当時の我々にとって、
ワクワクドキドキの歓喜の一言に尽きる。本当に、予科練を志願した思いが、満たさ
れ
たような気持ちがしたことを、今でも良く思い出す。それもその筈であろう、後にも
先にも、
飛行兵らしい、事は、このことが一回だけで、娑婆で想像し期待ていた、滑空機によ
る
訓練も無かったからです。

それから、数日は、隊内では、適性検査のことが関心事で、みな、勝手に俺は、操縦
だ、そして、戦闘機搭乗員に行くぞとか、俺はどうだといって、胸をときめかして
同期の友と話し合たりしていた。

それも束の間のことで、5月の上旬の或る日のこと、午後の課業時間直前になり、
16期生分隊総員整列の下命があり、何だろうと、集合して居たところ、本部庁舎方
向
から、飛田司令(プロフイールに就いては別稿にて)が、自転車で、副長も連れない
で、我々の集合広場の指揮台に上がり敬礼を受けたのち、休めの号令をかけて、
我々に楽な姿勢をとらせて,慈父のような口調で達示が始まった。

その時の訓示達示の詳細は、忘却の彼方にあるが、大筋の骨格と肝心なことは、今で
も思いだすことが出来るので次ぎに記す。

『諸氏も、入隊して、1月を経過して、よく、がんばっているようである。・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
戦況が逼迫してきて、海軍では、練習航空隊の教育中止のやむなきにいたった。・・
・・・・・・・・
前線も、本土に近くなり、お前達の先輩はは、必死の覚悟で戦いにいどんでおる・・
・・・・・
先輩達の戦場が、移ってくるための、後方基地の増強を急ぐ必要が出てきた・・・・
・・・・・・・
お前らは、予科練教育も中途であるが、ここで、先輩たちの為に、後方基地増強の任
に就くように』 と言った達しであり、要するにこの時、正式に予科練教育の中止を
宣告されたので訳である。

そして、司令は、当時の軍人としては、一寸、誰でもが言えないような訓辞をされ
た。
『お前らは、海軍にだまされたんだ、海軍には、お前らを乗せる飛行機は無い、訓練
する燃料もないのである』といった意味のことを、我々練習生を前にして、言われ
た、そして、
『お前らは、生きながらにして、神様だ』とも言われた。

<<このことに就いては、内容は、記憶を思い出して書いているので、言葉は正確で
は無いかも判らないが、趣旨については、他の同期生も、そのようなことで有ったよ
うであると言ってくれている。 又、この件については、司令の紹介記事の稿で補足
説明します。>>>

その時、前述のとおり、多少隊内の雰囲気と戦況については、薄々ではあるが不利で
あることは、想像はしていたものの、本当に涙が出た。それは、土方になることでは
なく、予科練教育が中止になったことが残念でたまらず、こみ上げてきて、嗚咽はし
ないものの、その嘆き落胆は相当のものであった。


つづく


最終更新(1998/12/12)