船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第13回

新兵教育  続(4)




変化の無い、日課の噺がダラダラ続きましたが、この新兵教育中に、一番に、娑婆気
を抜いて、予科練魂の注入に注がれます。

その為、精神訓話の時間の他に、日課の色々な場面で、分隊長をはじめとして、分隊
士、教員から、しごかれて、少しずつ、軍人らしくなっていきます。

予科練魂では、攻撃精神、敢闘精神、積極性、負けじ魂、スマートで几帳面、迅速性
など等、それらの、一つでも欠けた態度が見えると、徹底的にしごかれた。

この間は、日曜の上陸(休日外出のこと)は、ありません、娑婆から隔離して、早く軍
隊生活に馴れさせる為でもあるが、日曜日は、隊内軽業となっており、通常の課業有
りません。
多分、隊内整理や、少しは、自由な時間が有ったようですが、実は、日曜に、使役の
作業員○○名整列と言った命令が良く出される。

この作業員は、分隊の一部の人員であるので、作業員に出た者は、隊に残っていて自
由な時間を持てるものとは、違い苦労することが多かった。

そこで、要領の良い者は、それを上手に逃れる場合が多く、真面目で要領の悪い者
は、度々作業員に出て、折角の自由時間が作れない場面が多かった。

相当、日課になれて、要領良くやらなければ、自分の身の回りの事をすることもまま
ならないのが、新兵教育期間の特徴である。

座学(精神訓話・軍制・国語・数学・運用・特講etc)の時間は、連日の気を抜けな
い鍛錬の為、疲れが出て、舟を漕ぐ場面も有るが、そこは、教室の後ろに控えている
教員に一喝される事になっていた。

夕食後の、温習時間は、日によって、復習・通信術受信・精神訓話などが、あるが、
ここでも、眠気を催すことしばしばである。温習時間の終わり近くに、反省録なる日
記をしたためさせられて、分隊士に提出して添削を受けていた。(この反省録が手元
にあれば、いろんな事が思い出せたのにと残念です。終戦後持っていたのですが、家
庭ゴミに成った)

温習の最後に、例の、海軍兵学校に倣って、五省を誓唱して、反省をおわり、温習時
間がおわり、寝具用意になる。

この様な、日課を重ねて、5月の始の特別教育の成果を示す総員査察を目指して連日
が、隙間の無い訓練が続けられて行く。

この期間の、或日、隊外行軍が、姪が浜、今宿と言ったコース約10kmぐらいの道
程であっろうか、その途次、姪が浜海岸に展開し、基地としていた、第20?空の、
水偵隊に立寄り、分隊士の同期の士官の高配で、水辺に係留されていた、零式水上偵
察機(三座)を、座席まで、整備兵に負ぶわれて、見学することが出来た。搭乗員にあ
こがれて、予科練に志願してきたものの、飛行機の気配は、何一つ無く、訓練訓練の
日を過していた我々には、歓喜の出来事であり、その時、垣間見た、実戦経験を積ん
だ搭乗員の振る舞いを、まじかに見て、我も続かんと心が逸ったことを思い出だす。

その隊には、零式水偵と零式観測機(いわゆる 零観)が配備されており、玄海灘、東
支那海方面を哨戒区域とした任務に就いていた。

水偵・零観は、空襲警報が発令されると、空中退避行動に移り、我々が福空在隊中に
一番多く見た機種で懐かしい。

土曜日の別課は、大掃除に当てられていたと記憶している。
甲板掃除は、映画等でご存知かと思いますが、ズボンを八分目に捲し上げる(このと
き、膝上まで捲し上げないで、綺麗に畳み上げて、脛の半分ぐらいに裾を畳む)、各
人は、ソーフ(マニラロープの編みこみをバラバラにしたもの)を手に持ち、お相撲さ
んの股割りのように、片足を斜め前方に真直ぐに突き出し、片方の膝は、蹲踞の姿勢
のように全屈して、体重をかけて、両手で、ソーフを斜め右から次ぎは,真中そし
て、左斜めに交互に床を拭きながら足を交互に伸ばしながら、床に撒かれている水を
押すようにして、甲板の端から端まで、それ押せ!押せ!と汗をかきかき、の難行で
ある。

最後の、仕上げで、水分をふき取りの為、一列に歩調をあわせ、一般の雑巾掛けの姿
勢で、押していくのである。
甲板掃除の、描写で判り難いでしょうが想像してみてください。海軍名物甲板掃除で
下級兵としては、避けて通れない日課である。

日曜の別課には、軍歌演習である。軽業、上陸等で弛んでいるから、気合を入れると
いっては、軍歌演習に力が入れられた。
分隊全員が、兵舎前の広場に、円陣を組み、歌集を左手に掲げて、右手は歩調と合わ
せて大きく振りながら、歌を大声で歌いながら、延々と回りつづけるのである。

これで、大雑把では有るが新兵教育の思い出は、少し思い出したエピソードは、又の
機会に記すことにして、締めくくり、  次回は、一等飛行兵へ昇進から続けましょ
う。


つづく


最終更新(1998/12/12)