船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第10回

新兵教育   続(1)




当時は、娑婆でも代用品時代でしたが、福空の、私達に、用意された、食噐は、海軍
の伝統的食噐である、琺瑯引き金属製はなく、陶器の錨と桜マークが、印された大食
噐・中食噐・湯呑・皿でした。

食缶は、大・小で、蓋附き四角形のアルミ製で、同じく大きな薬缶が各テーブル群毎
に支給されていて、分隊・班・テーブル群番号が表示してあった。

烹炊所では、食缶毎に、人数分を、経験と目分量で、配食して、所定の食缶棚に並べ
てあるのを、食卓番が、受取ってきて、食事準備をするのであるが、これも、馴れる
と約3〜4分間で、12名のご飯、汁、惣菜、沢庵を、食噐に盛付け、各員テーブルルに着い
て、教員室に居る班長に食事用意よーしと、報告して、班長の着席を待ち、班長の就
けの号令で、各自の食事が始まる。

食べ盛りの年代である上、間食は無いのと、訓練は厳しいで皆、量的に不足を感じて
いるから、食卓番の盛付けに、注目をするもので、ご飯の盛について、不公平がない
様に,しかも、短時間の内に盛り付けをし遂げる為に、当番は、苦労した。

時として、班長の命で、席順をづらせて、不公平盛付け(自分のものだけテンコ盛り)
の防止を図り、見せしめをすることもあった。

大に汁、中にご飯、皿に惣菜と盛るのが決まりで、惣菜と、沢庵は、食缶の蓋に盛っ
て配食されていた。
福空では、ご飯は、白米食で、何回か、大豆等の混入食があり、それも数回で、殆ど
白米食であった。入隊前に、軍隊は、麦入りご飯と聞かされ、そう思い込んでいた
が、白米飯であった。量は、今で言うなら、軽く二膳前後であり,何時も、腹8〜9
部と言ったところであったろうか。

内容は、定かでないが、朝は、生卵又は、焼き海苔と沢庵、味噌汁(時として、代用
汁として、小麦粉を溶かし醤油味の、ツワブキを具とした汁が出た。私は、これは苦
手て、その日は、必ず便が緩くなるため困った)が普通。

昼は、ご飯、汁、沢庵。  夜は、一汁一采で、煮物の惣菜が出されていたと記憶し
ている。

軍隊では、早飯早糞を、習いとしていた。食事が終ると、班長の開けの命の後、食卓
番は、食噐を片付けていたが、食噐を、兵舎で洗ったか、食缶と共に、烹炊所横の洗
い場で洗ったか記憶に無い、食缶は、烹炊所の所定の棚に返納する。

食卓番以外は、軽い室内清掃のあと、次ぎの課業整列に備えるまで、しばしの時間が
ある。

閑話休題
入隊式の前日であったが、正装をしての整列訓練が有った時の、アクシデントを一つ
ご披露しよう。

服装検査の時、制帽の心金(ピヤノ線が入れてあり、帽子天板部分を円く形作ってい
た。)をね帽章の上で、山形に曲げて格好をつけて居た者が数名居た(私も)のを、見
咎められ、それもう、大変なお説教を受けた。

それ「天皇からの貸与物を勝手に変形した云々」、それ「貴様らが、格好つけるの
は、早い云々」等などて有り、それを修整するのに苦労した。焼入れ線である為曲げ
たものは真直ぐに戻らなくて、なんとかするのに困った。

この件について、後に判ったことでは、兵学校での正規士官が、良く、格好をつけた
がる予備学生での予備士官(スペアーと差別されていた)が好んで帽子に型をつけるこ
とをさして、誹謗・非難していたとの事で、スペアーのマネをするなーーでも有っ
た。

しかし、搭乗員や、潜水艦のりの中には、心金さえとっていた居る者もあり、我々に
は格好良く見えるので、あこがれてマネしたのであるが、端正なものを要求される軍
隊での一こまであった。


つづく


最終更新(1998/12/12)