船狂ち爺さんの

「私の予科練記」第1回

昭和19年入隊志願のころ




 私は、K県の郡部の旧制県立K中学の2学年満14歳でした。
 当時は、巷には、大本営報道により、未だ、緒戦の戦勝気分が残っていた。(本当
は、ミッドウエイ海戦の敗北、ガタナカル島の敗退と言った守勢に立たされた日本軍
は、玉砕戦の報道も出始めていた頃) 

 一億総決起「勝つまでは欲しがりません」「撃ちてし止まん鬼畜米英」「国家総動
員」と言った戦時ムードの世相の中で、物資も欠乏が目立ち、代用品時代でした。

 学校も軍事教育真盛りで、我々は、陸軍幼年学校(陸幼)、陸軍予科士官学校(陸士)
海軍兵学校(海兵)に進むことを第一の目標にしていました。

 K中は、K県の中では、軍人志望が多く、県下では、名門校の中に入っていまし
た。
 当時の、クラスメートとの話題は、軍事情報(今の軍隊マニアのように最新の戦闘
機は云々と言った類)に関することが一番多かったように、一端の軍国少年振りでし
た。

 私の父は、大正時代に、海軍に水兵として9年間奉公して、3等下士官として満期除
隊をした経歴があり、自分の、艦船生活の経験にたって、しきりに、陸軍に進むこと
を小さいころから、言い聞かされて育ち、1学年のときは,陸幼の入試を受けさせら
れ落ちました。

  私は、物心付いた頃から海と船が大好きでした。故郷は、山間部で海とは縁が無
かったのですが、汽車等での車窓から、海が見えて当時の和船でも見ると、ご機嫌と
言った状態で、板切れを見つけては、船の形に削って遊んでいました。

 2学年の1学期の終り頃だと記憶していますが、海軍甲種飛行予科練習生の志願
が、それまで3年2学期修了でなければ、志願できなかったのが、2学年修了までに
年齢が引き下げになって募集がありました。

  当時は、軍部から、各学校に配属されていた、軍事教練の教官役と監督のための
陸軍士官からも、軍人志望者の督励があっていたようで、クラス担任から志願者募集
を督励されました。

 私は、この時とばかりに志願する事にしました。当時憧れの飛行機搭乗員を目指し
たことと、海軍であるから、いつか、軍艦に乗る機会もあることが志願の理由でし
た。
 
 しかし、両親を説得する自信はあまり無かったので、願書だけは、無断で出してか
ら、後日、両親に報告しましたところ、いま少し、勉強を続け陸士,海兵の受験まで
待てとしきりに宥められました。
 
 妹と私の2人兄妹だったので、それは、反対されました、しかし、合格したら、父
は、軍人になれと育てた手前強固には、反対できず、母は内心反対でも当時の世相の
性もあり、渋々賛成でした。

 そのようなことで、昭和20年3月29日に、福岡県糸島郡周船寺町 福岡海軍航
空隊に入隊する事になった次第です。


つづく

最終更新(1998/12/12)