船狂ち爺さんの

「私の予科練記」追憶編 参

育った時代背景 3




  農村部の小学校から当時の旧制中学に進学するのは、クラスの中の一部に過ぎ
なかった。s18年私達が進学する年から、学科試験が廃止され、内申書と口頭試
問試験での選抜方法に替わった。

 私の母校は、歴史の古い学校であり、軍人学校志願者が多く、合格率も県下で上
位校で、名門校であった。其の頃の、学園は、上下のけじめが厳しく、よく、上級
生に、態度が悪いとか、何か言っては、鉄拳制裁を受けた。

 学校には、陸軍の配属将校が派遣され、それに、教練の先生として、予備役の陸
軍将校と下士官が在職していて、陸軍歩兵操典をもとに、軍事教練の時間があり、
年1回管区連隊から、査閲があり、査閲官に、日常の軍事教練の成果を点呼査閲を受
けていた。

 私は、父の希望でもあったので、陸軍幼年学校受験補習コースに入り、放課後
T~2時間の補修授業を受けることになったが、陸軍より海軍に進みたい私は、補習
には熱が入らなかった、当然受験はしたものの不合格で有った。2学年のときは、
補習組みには入らなかった。

 夏休みになると、陸幼・陸士・海兵の先輩が、母校で、軍人志望の後輩と歓談す
る行事が催され、陸軍の四角四面のばね仕掛けみたいな挙手の敬礼より、七つボタ
ンの制服で短剣を吊った海兵の斜め前から手を上げての挙手の敬礼がスマートに見
えたものである。ますます、海軍志願の思いを募らせていった。

 s18年の3月であったが、海兵志望の従兄弟が、予科練甲12期生として、入隊
が決まった友と、別れ旅行で、私のうちを尋ねてきてくれた。其のときまでは、予
科練のことはあまり知らなかったのである。そして、従兄弟はその年の12月に江田
島の海兵に入校していった。

 私も、何とかして、海軍に入りたいという思いは募り、当時は、中学4年にならな
ければ、海兵の受験が出来ないので、それまで、学習に励み、受験の難関に当たら
なければと考えていた。

 太平洋戦争も、18年ごろから次第に重苦しい空気が漂い始めてはいたが、我々
軍国少年は、あまり、悲観的な見方はしないで、早く、戦争に参加して必ず戦勝に
導くんだと言ったような気概を持っていた。

 巷間には、陸軍少年飛行兵・海軍志願兵のポスターや、戦意高揚を訴えるポス
ターが掲示され、青壮年のもとには召集令状、兵籍の無い者には、徴用令状が、そ
れに、女子の遊休とみなされた人にも動員令がきて、周りは戦時色が厳しくなって
いた。

 映画は、戦意高揚の内容の物が多く、それらの中で予科練を題材としたものもあ
り、刺激を受けていた。

 先輩が、陸士・海兵や予科練に合格して、別れの壮行会に招待されたりしてい
て、2学年に進んだ、学校でも、英語の時間が半減され、其の結果英語担当の教諭
が代数を数学の教諭替わりに授業を受け持つようになった。私のクラス担任も英語
の教師であったが、数学時間も持たされるようになって、大変苦労された様であ
る。

 其の頃になると、陸軍も海軍も志願年齢を引き下げて、多くの青少年に志願を勧
め動員体制を強化推進いしていて、競い合っていた。

 隣町には、新設された海軍航空基地があり、飛行練習隊が配置され、赤トンボが
飛び交っており、汽車通学途次、七つボタンの制服を着た飛練の練習生が移動する
のに遭ったり、故郷にある、温泉地で一晩の休養を取って基地に帰る飛行服姿の海
軍軍人に会ったりして、はやく、海軍に入りたい気持ちが高揚していった。

 また、高台に在る隣村でも、海軍航空基地の造成が始まり、隣近所の部落にか
ら、順番で勤労奉仕で飛行情整備作業に駆り出され、朝夕の通学列車は超満員のす
し詰め列車となっていた。我が校には、海軍設営隊が駐屯するようになり、校庭に
は、対空機銃陣地が構築されたり、理科教室の廊下には、通信機が置かれ、通信兵
が送受信に励んでおり、修養道場とし利用していた、和風建物には、隊の本部が置
かれていた。

 戦局の激化を、我々も感じる様になっていた。学校教育も戦時色が強くなり、一
人でも多く陸士・海兵の合格者を増やすための努力がなされていた。生徒も、軍人学
校のほかに理科系の高等専門学校に進む者には、海軍の委託学生制度の受験を目指
す者も多かった。

 2年の1学期の終わりになった頃、クラス担任から、海軍甲種飛行予科練習生制度
が変わり、2年在学中から志願できる様になったので、希望者を募ることに成ったと
知らされた。

 これを聴いた私は、咄嗟に志願したいと思った。海兵を受験するまでは、4年まで
待たなければならないし、父は、陸軍に入ることを薦めるに違いないと思って、両
親に無断で願書を出し田。それから入隊までは、既に書いたとおりである。

 当時は、配属将校に、睨まれると、将来軍隊志望の際不利な扱いを受けることが
あるとのことで、学校全体教師も生徒も、配属将校の鼻息をうかがうような雰囲気
も在った。

 私のクラスから、数名が予科練の志願を申し出たことから、担任も面目を保てら
れた様で、その様な、世相の風潮であったことが今、思い出されてくる。


つづく

最終更新(1998/12/29)