船狂ち爺さんの

「私の予科練記」追憶編 弐

育った時代背景 2




 戦時情勢は厳しさを増していた。
 その様な時代の下で、7歳違いの妹と2人兄弟で、駅前旅館兼割烹旅館の家業を営
む両親に育てられていた。父は、本文で紹介したように、海軍の水兵背活を9年余を
経験し、厳格で几帳面な性格であった。

 家業もそこそこであったので、左程贅沢は出来なかったが経済的には恵まれてい
たようである、
 父は、私に、軍人なるように育てていた。私は、幼少の頃から、きかん気が強
く、曲がったことに対しては、真っ向から噛み付く癖があり、子供だからと言って
騙ししてあしらはれたりすると、噛み付いて、近所の大人を梃子摺らせていたよう
である。

 就学以前から、私は、年長者と交わることが好きであった様で、自分より幼い者
とはあまり遊んでいなかった。このことが、中学に進学してからも、それ以後今日
までその様な性向はあるようで、そのことが、人生の中で相当影響を受けている。

 私達の小さい頃は、『僕は、軍人になったなら、勲章つけて、剣下げて、……・
・』といったような童謡みたいな歌に有るように、軍人になることを当然と言った
ような育てられ方であった。

 其の頃の子供の遊びも、戦争ゴッコや、皇軍将棋等て゛、軍人に関る物が多かっ
た。当時教科書以外の読物を買うことは、大変なことであり、現在みたいに溢れる
ほど出版物は無く、たまに、友達が持っていると、まわし読みをして、むさぼる様
にして読んでいた。私は、小学館の月刊学習誌と、小学生新聞の購読をしていた
が、後に、少年倶楽部も買ってもらっていたが、当時の内容は戦争物が多く、中で
も、南洋一郎の怪鳥艇や、田河水泡ののらくら物語り、冒険だん吉等の漫画も戦時
色の強い読物を好んで読んでいた。

 s14年ごろから、月一日は、戦争の日?記念日(後に毎月8日を大詔奉戴日とし
た。)を設けて、弁当も日の丸弁当を持っていくことになった。其の頃の、農村部の
弁当は、梅干入りの弁当が日常であるのでたいした変化は無かったのであるが、私
の様に商家の子供は、惣菜付きの弁当を予ては、持っていっていたので、其の日
うっかりして、日常の弁当を持って居たりしたら検査で怒られなじられたものであ
る。

 巷間では、防空演習の訓練が始まっていて、警戒警報の下では、灯火管制が発令
され、電灯にシャドー幕を付けて、灯火が戸外に漏れないようにした。父は、警防
団(消防団の改編)の幹部でもあったので、地区の防空演習の先頭に立っていたか
ら、喧しく、言っていた。

 s17年の春季遠足で、登山を終え下山途中、空襲警報が発令され驚いたことが
有る、それは、4月18日のドウリットルの渡洋爆撃であったわけで、警報をきい
て、そくさくと5里ぐらいの帰途を急いだことを覚えている。

 小学校の生徒指導も、小国民の練成と言った視点から、行事や教育がなされた。
中でも、心身鍛錬のための、寒風摩擦、示現流剣法による立木撃ち、少年団組織に
よる団体訓練と言ったようなことを通じて鍛錬を課せられていた。

 各担任の先生に恵まれ、両親の庇護の下、小学時代を終了したが、シナ事変の始
まった年に小学生になって、戦局が進む最中で、世間は戦時一色の環境になって居
た。


つづく

最終更新(1998/12/28)