『サイタサイタサクラガサイタ』『ススメススメヘイタイススメ』の文部省国定
国語読本が、制定された年の尋常小学校1年生で、其の年昭和12年7月7日に、盧江
橋事件でシナ事変が勃発しました。
町では、召集令状が来て、出征兵士が、毎月、歓呼の声で故郷の国鉄の駅頭で、
壮行式の後、見送りの国防婦人会、在郷軍人会、小学生の万歳の声で勇壮に、出征
して往かれました。
南京陥落、広東陥落、と戦勝気分がみなぎり、提灯行列に参加したりであった。
一方、この頃から、銃後という言葉があふれるようになり、新体制、物資統制令が
次々と出されていき。衣料切符が無ければ、衣料も買えなくなり、商店には、店頭
から次第に綿製、純毛製の商品が消え、代わりに、人絹繊維の製品が並ぶように
なってきた。
巷間では、贅沢は敵だとか、銃後を守ろう、戦地の兵隊さんを偲んで頑張ろう、
国民服・モンペの普及、隣組制度の充実組織化等など、戦意高揚運動が展開されて
いった。
しかし、s14〜5年頃までは、我々の生活では、衣類が人絹で、長持ちしなく
なったことが困ったことで、日常生活は、左程不自由は無かったのではなかろう
か。代用品利用が提唱され貴重な基礎資源の節約が叫ばれていた。女性の電髪と、
華麗な洋装も、批判の的になりだした。
また、小学校では、団体訓練といって、中学年以上クラス全員が隊列を組んで、
マーチのリズムで隊列を組んで校庭を歩く訓練が毎週実施されるようになった。
出征兵士の家、英霊の家には、標識札がかけられ、近隣のひとは、それらの家族
に協力する様にとの指導もなされていた。
14~5年ごろには、大政翼賛会政治が始まり、真珠湾開戦の方向に潮流は流れてい
たのであるが、私達幼少の小学生は、その様な気配より、戦果発表にはしゃぐこと
や、、一方ABC包囲網のおかげで、物資が欠乏してくることに対する、反米英思
想が当然のことの様に、映ってきていた。
s15年四年生になって(s16年五年のときであったかかも知れない??)、尋常
小学校が国民学校と改称になり、それまで、尋常科何年と言っていたのが、小学何
年生と言うようになった。
其の年は、皇紀2000年と言うことで、八紘一宇の精神で大東亜共栄圏の建設につ
いての国民的精神の発揚のための儀式や式典が開かれた。
召集による動員や、青年は、志願兵に成ったり、軍需工場に就職したりで、農村
部の働き手も少なくなってきており、商家生まれのね私達は、農繁休暇には、農業
奉仕作業に駆り出されて、慣れない田植え、稲刈り等の仕事を手伝った。
つづく