ご隠居の

「海軍ファンへの道」第1回

生い立ち


 私は昭和32年、広島県広島市で生まれました。ご存知のように広島は昭和20 年8月6日に世界で初の原爆の洗礼を受けた町です。昭和30年代といえば、原 爆スラムと呼ばれるバラックもまだ多数有り、戦争の傷痕もまだ数多く残って居 た時代です。
 さて、海軍と言うより軍事関連との関わりの1番初めは何だったのでしょうか? 広島から西へ行くと米軍の岩国基地があります。米国軍人達が広島の街を歩いて いる姿を見た事も有るに違い有りません。記憶には無いながらそんな出会いが有 ったのではないでしょうか。
 また、東に向かうと帝国海軍技術の象徴とも言える「戦艦大和」を建造した海軍 工廠の在った町、呉になります。私の両親はその呉の北隣の町の出身です。 南に向かうと海軍士官の故郷、海軍兵学校の在った江田島に至ります。

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 広島には寺町というお寺が密集している町があります。そのお寺の一つが経営し ている幼稚園に入園しました。その幼稚園では園児達をバスに乗せていろいろな ところの見学に連れていってました。その場所の中に次の2個所が有りました。
1.米軍岩国基地
2.海上自衛隊呉基地
岩国基地は基地の正門をバスで通過した事と、車窓から当時珍しかったジェット 機を見た事くらいしか記憶にありません。正門の衛兵(MPでしょうか)の姿が 格好良かった事が印象的でした。
 呉基地の方は全く記憶にありません。母親の話では潜水艦に乗せてもらったとの ことです。今から思えば記憶に無いなんて全くもったいない事です。この時旧呉 海軍工廠のドックを車窓から見たような気もします。

 小学校時代はこれといった出会いはなかったと思います。中学校までスキップし ます。

 中学は私立のH中学に入学しました。よくある制服は陸軍スタイルですが、ここ の制服は海軍スタイルでした。また、この学校には旧海軍士官や特攻隊の生き残 りといった出身の先生が数名居られました。(異色なところでは、元米国海兵隊 に在席していたという米国人の先生も居られました。)教育方法もかなり、旧海 軍兵学校のやり方を意識していたようなところもありました。例えば、5分前と いうことを徹底的に指導されたこと。紳士(ジェントルマン)であれと言われつ づけたこと。休憩時間が終わるとベルが鳴るのですが、ベルが鳴り始めるとこれ までの動作をすぐに中止し、その場で直立。ベルが鳴り止むと同時に次の動作に 移る事など、後に江田島教育の本を読むとよく出てくるような教育を受けていま した。

 その後、同じH高等学校に進み、そして東京の理系の大学に進みました。就職も 何かの縁で防衛関連の案件に従事する事もたまにありました。次章では、海軍に 興味を持ったきっかけともいえる本の話をしましょう。

つづく
最終更新(1999/01/31)